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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ:北海道和種馬ー「稲荷山古墳」と「将軍山古墳」

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  将軍山古墳「騎馬武人」(復元)

 前回は「古代牧」の形成について掲載しましたが、今回は5世紀後半に築造された埼玉県の「稲荷山古墳」と6世紀後半に築造された「将軍山古墳」から出土された「代表的な遺物」を紹介します。

稲荷山古墳
 国宝の金錯銘鉄剣が出土した、墳丘全長120mの前方後円墳である。
 前方部は昭和12年に土取りのために失われてしまったが、復元工事を行い平成16年3月築造時の姿を取り戻した。
 発掘調査の結果、周囲に長方形の堀が二重に巡り、墳丘の西側と中堤の2ヶ所に「造り出し」と呼ばれる広場があった事がわかった。
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 この古墳の偉大さは出土した鉄剣の銘文の発見であり、日本古代史を考える上ではまさに「世紀の大発見」と言うことが出来る。
                                                                      
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銘文を読む





































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銘文の現代解釈





































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鉄剣表



































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鉄剣裏





































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 古墳時代の刀剣類に銘文が刻まれているものは、現在のところ全国で7点ある。このうち東大寺古墳出土太刀と石上神宮七支刀はそれぞれ後漢と百済で作られたものである。
 象嵌銘のある刀剣の中でも文字数は、上記図で分かる様に稲荷山古墳の115文字は抜きんでて多い数字である。
 製作年代は471年と想定されるが、年代が押さえられる資料としては日本最古の資料と言える。
 そして重要なのは銘文の内容である。辛亥年(471年)は古事記・日本書紀が完成する250年も前にあたり、古代国家成立に向けての激動期である5世紀の事を記した同時代資料として不動の価値を持っている。
            (第21代雄略天皇期の物であろう


将軍山古墳
 この古墳は「稲荷山古墳」の東隣にある全長90mの前方後円墳である。
 明治27年(1894)に地元の人々によって後円部に露出していた石室石材の抜き取りが行われた際に豊富な遺物が出土し、現在では東京国立博物館・東京大学・当館等に分散して収蔵されている。
 平成3年度から復元整備事業を開始し平成9年度に完了した。
 横穴式石室を採用したためか、前方部に比べて後円部が小さく造られている。
 墳丘に比べ堀幅が広く非常に大きな二重堀となっており、「稲荷山古墳」と100年近くの時期差あるが、方形二重堀や中堤造り出し・墳丘造り出しなどは驚くほど似ている。
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 馬の冑と旗竿金具(蛇行状鉄器)が出土している。(馬具・人間の甲冑部分が多数出土)
 これらは重装騎兵の装備であり、高句麗の壁面古墳にも馬に冑と甲をつけて鞍の後には旗を差した騎馬に乗る兵士が描かれている。重装騎兵を用いる戦法が発達しなかった日本列島では殆んど出土しない物で、馬冑は他に2例、旗竿金具は他に7例あるのみである。
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    4枚以上の鉄板を組み合わせて作られており、おそらく朝鮮半島で作られた物であろう

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轡(丸型)
















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鐙(鉄製)

















馬具の一部
















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冑の庇















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人間の鎧の一部















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その他の出土物




































 家畜馬が大阪府四条畷市辺りに来たのが4世紀後半~5世紀頃だと言われているにも関わらず、約500㎞も離れた地に僅か100年後に「騎馬武人」が出現したことは、「馬」「馬具」「武具」がヤマト政権の畿内と東国がいわゆる東山道を介して、既に繋がっていたことが間違いない証拠になり得るであろう。
 また、前方後円墳の規模からヤマト政権と繋がる、かなりの権力者がいたであろことが推測できる。
 475年に百済の第一次滅亡と混乱によって百済をはじめ加耶諸地域等から多くの渡来人が列島へ流入した。
 この時期に様々な改革と新技術導入に積極的であったため、在来倭人が欲する馬匹生産や製鉄技術を持った渡来人は相応の受け、 朝鮮半島と日本列島双方の事情から渡来人が列島に移住し、東日本にも配置されたのであろう。


       引用                            ガイドブックさきたま
                                     東国の渡来人ー5世紀後半を中心にしてー
       参考文献                        上代日本における乗馬の風習
                                      古墳時代における畿内と東国


       鈴木純夫                  







































































































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