上:本稿に関する遺跡図
下:現在の地図
宮間田遺跡から「牧」と記された墨書土器が出土した。しかし馬具などの発見はない。釜無川右岸河岸段丘 上にあり、縄文時代及び平安・鎌倉時代にかけての遺構・遺物が数多く発掘され、なかでも漁労具用土錘・鍛冶炉遺構・墨書土器の出土品は学術的にも重要な意義を持つ遺跡である。
馬匹の生産と中央との馬の関わりが、牧経営に何らかの形で関与していたと思われる。
平安時代、朝廷直轄の牧を御牧(みまき)と言い、甲斐国には「真衣野牧ーまきのまき」(武川町牧原周辺)・「柏前牧ーかしわざきまき」(推定地が断定できていない)・「穂坂牧ーほさかまき」(韮崎市穂坂周辺)の3牧が置かれていた。
穂坂牧は茅ヶ岳山麓・真衣野牧は釜無川右岸・柏前牧は比定地が確定していないが、八ヶ岳山麓に置かれていたと推測されている。
牧が置かれた巨摩郡北西部(現在の北杜市・韮崎市あたり)は高燥寒冷なため、農地開発が遅れ人口も希薄であり、広大な放牧地が確保しやすかったのであろう。
真衣野牧・柏前牧で15頭づつ、穂坂牧で30頭合計60頭を毎年貢馬しなければならなかった。これだけの良馬を生産するには、1,700頭もの馬が飼われていたと言われている。
御牧では毎年秋に国司などの立会のもと、焼印による牧馬の確認・毛色・年齢などの登録が行われた。真衣野牧・柏前牧では「官」、穂坂牧は「栗」の字の焼印が用いられた。
梅之木遺跡から出土された焼印であるが、「字」の確認は出来ない(鉄製)
「馬」は財産・軍事力と言う2面性があった。有力な貴族は牧を私的に経営し、「馬」を贈与品とすることで勢力の拡大に努めた。
軍事力としては、後の地域武士団の形成に深く関わる事になり、「小笠原牧」・「逸見牧」などが知られる所である。
平成25年秋、上原遺跡で騎乗に不可欠な「轡」が出土した。
鉄製の轡
これらの発見により茅ヶ岳西麓の遺跡群が、小笠原牧の運営に従事した集団の居住地であった可能性が濃厚になった。飼育頭数は不明であるが、隣接する穂坂牧では800頭を超える牧馬が放牧されていたと推測される。
茅ヶ岳西麓の集落は、9世紀に入ると塩川沿いの平坦地に出現し、やや遅れて9世紀半ば頃に梅之木遺跡などの牧集落が成立する。そして入植してきた人々は四半世紀をかけて未開発の広大な森林を伐採して焼き払い、農地・牧草地を作り出し集落や放牧施設を建設した。馬飼育の技術者や鍛冶職人の誘致と塩川の砂鉄などの資源開発・木炭生産も合わせて行ったと思われる。
しかし、10世紀までは小笠原牧の集落群は安定的に営まれたが、11世紀になると急減してしまう。
同じ様に、御牧からの貢馬の数も減少した。
平安時代後期、有力な貴族や寺社が所有する荘園が拡大し、地方では中央貴族にと繋がっていた在地豪族が成長して「牧」を私的に濫用したため、朝廷による牧経営が急速に衰退したものだと考えられる。
引用 宮間田遺跡
甲斐の黒駒ー歴史を動かした馬たちー
北杜市考古資料館
文献から見た古代牧馬の飼育形態
鈴木純夫