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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅷ:トカラ馬:関ヶ原合戦図屛風・戦国島津氏関係年表より

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  岐阜市郷土博物館蔵
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 週刊ビジュアル日本の歴史NO8

 慶長5年(1,600)9月15日の早朝に、近江(現在の滋賀県)との国境に近い、美濃関ケ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で、徳川家康が率いる東軍と石田三成らの西軍、合わせて10万人を超える軍勢(通説)が戦ったと言われる、戦国時代最大の合戦があった。(新暦9月15日は7月25日、旧暦9月15日は11月3日)

 著者が知る通説に対し、9月6日に発売された「歴史群像ー通説打破!”天下分け目の戦い”はこう推移した。関ヶ原合戦の真実-白峰旬著」に全く新しい関ヶ原合戦像が語られている。
 著者は、この説に「なるほど」と共感させられた。

 本ブログでは鹿児島県の馬を紹介しているため、薩摩島津軍の通説と、関ヶ原合戦前後の慶長4年(1、559)~慶長6年(1,601)の関係年表を紹介する。

 通説:石田三成ら西軍の敗北を察し、島津義弘が退却を決意し、家康方先手勢(井伊直正ー徳川四天王の一人)の猛勢の真中へ攻め、東側に突破した。その際に島津軍の放った鉄砲玉が「井伊直正の足」に当たり、それが原因で,、慶長7年(1,602)42歳の若さで亡くなったと言われている

 関係年表
 慶長4年(1,559)正月9日:徳川家康・前田利家等豊臣氏の年寄衆は、義弘・忠恒父子の慶尚道泗川の戦                  
                   功を賞し、5万石を加え、忠恒をして右近衛権少将に任じた。
             2月24日:忠恒、伊集院久治を薩摩出水の地頭とした。
             2月28日:義久は大隅富隈に帰らんとし、大坂を発した。
              3月9日:忠恒は伊集院忠棟を山城伏見の亭に手刃した。
             3月20日:伊集院忠棟の子忠真、日向都城によって叛した。
               閏3-: 義久は山田利安等の諸将を大隅・日向の各地に分遣し、伊集院忠真に備えた
                4-:忠恒は、山城伏見を発して帰国した。
             6月23日:忠恒は、伊集院忠真の属城大隅恒吉及び山田を攻め、山田城を陥した。
                6-:義弘・忠恒は、慶尚道南原及び同道泗川の両軍戦死者の供養碑を紀伊高野山       
                   に建てた。
                6-:義弘は、忠恒に訓戒の条々を与えた。
              7月9日:家康は、山口直友を派し、忠恒をして速やかに伊集院忠真を討たしめ、また日
                   向肥沃伊東祐兵・肥後人吉の相良頼房をして島津氏を授けさせた。
              8月20日:家康は、寺沢正成を島津氏に派し、速やかに伊集院忠真追討せしめ、島津忠
                    豊及び伊東祐兵・相良頼房・秋月種長・高橋長行をして、正成と謀り、島津氏を   
                    授けさせた。
               9月2日:義弘は、山城豊国社に詣でた。
               9月2日:忠恒は、日向真幸院の地を霧島社に寄進した。
              9月30日:忠恒は、鹿児島を発して日向庄内に進み、山田城に陣した。
              10月3日:義弘は、山城伏見より大阪に行き、家康に会した。
 慶長5年(1,600)3月10日:これより以前、義久及び忠恒は徳川家康の調議を容れ、伊集院忠真の罪を赦
                    し、一万石の地を給した。そこで、忠真は降り、諸城を出した。
             3月25日:忠恒は、霧島神社に高原の地に寄進した。
             4月27日:義弘は、家康に大坂城で会し、伊集院忠真との調停の労を謝した。家康は陸
                    奥会津に出征せんとするにより、義弘に山城伏見城留守の任を命じた。
             5月11日:義久は、薩摩大乗院・福昌寺をして重罪人を隠匿することを禁じ、また華林寺に
                    も禁じた。
             7月14日:義弘は、大坂より家臣鹿島国明を薩摩鹿児島に派して、義久に兵を送るよう
                    頼んだ。
             7月17日:これより以前、石田三成、安国寺恵瓊をして義弘に説き、豊臣氏のために挙
                    兵させた。義弘はこれを拒み、家康の山城伏見城によらんとした。鳥居元忠・
                    内藤家長等に拒まれ、義弘の将新納旅庵が討たれたので、義弘は三成に応
                    じた。
             8月20日:これより以前、義弘は兵千人を率いて美濃垂井に陣した。のち、石田三成は義
                    弘をして美濃墨股を守らせた。
             9月22日:義弘、美濃関ケ原に敗れ、摂津住吉に逃れ、その室等の人質を欺き奪って出
                     帆した。ついで、日向細島に着き、帰国した。
             9月30日:家康は、子の秀忠をして安芸広島に出陣し、島津氏を討たんとした。
             10月2日:家康は、伊東祐兵をして肥後人吉の相良頼房、日向財部の秋月種長等と、義
                    弘を討たせた。
             10月9日:義弘は、美濃関ケ原従軍の諸士を賞した。
            10月10日:家康は、山城鞍馬で捕えた義弘の将本田信貞・新納旅庵を赦し帰国させ、義久
                    ・忠恒を説き、上京し罪を謝せんことを伝えた。
               10月ー:宇喜多秀家、美濃関ケ原に敗れ、家臣進藤正次と薩摩に逃れて島津氏に頼っ
                     た。
 慶長6年(1,601) 2月2日:家康の家臣井伊直正等は義久・忠恒に上京して罪を謝せんことを勧めた。
               3月ー:義久は、薩摩大明寺に地を寄進した。
               5月ー:これより以前、明王朱翊釣、義弘の朝鮮の役に捕らえし明人茅国料を送還せし
                    を喜び、毎年商船を薩摩に遣わすと約した。伊丹屋助四郎、海賊を集め、明船
                    を奪ったので、義弘は磔殺した。
              8月7日:義久・義弘・忠恒は家康の薩摩を攻めんとするを聞き、諸士を戒め、軍制を定め
                    た。
              8月16日:忠恒は、宝福寺に地を寄進した。
              8月24日:家康、忠恒の家臣鎌田政近を山城伏見城に引見し、本多正信・山口直友をし
                     て義久及び忠恒に誓書を与えた。

 慶長5年(1,600)4月27日、7月14日の記録から、義弘は徳川家康に従う意思があったものの、7月17日伏見城留守役、鳥居元忠・内藤家長の仕打ちにより、石田三成の軍勢に加わったことが分かる。

       
          引用    岐阜市郷土博物館蔵 関ヶ原合戦図
                 週刊ビジュアル日本の歴史 NO8 2000年4月11日 発行:ディアゴスティー
                 歴史群像 2017 OCT 10 NO145 学研
                 戦国史叢書 10  薩摩島津氏  三木 靖著  新人物往来社


      鈴木純夫
                                                



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