慶長の役 豊臣軍勢の布陣図
義弘公が、慶長の役の際、明軍より獲たる「ウシウマ」の木馬
征韓帰陣の際(慶長3年ー1,598年ー10月朔日、朝鮮軍泗川(しせん)の合戦の折、朝鮮軍の味方した明軍の軍馬十数頭を獲た)義弘公(島津家第17代当主ー1,535~1,619年)陶工20~30名及び、「ウシウマ」を獲て帰り、陶工は薩摩日置郡苗代川に於いて窯業に従事せしむ。世の賞玩する薩摩焼の濫觴(はじまり)即ち是なり。しかして其「ウシウマ」は帰還後、鹿児島公厩内に飼養したが、川上村の領主左衛門尉久隅が吉野牧を献じたので、是を此の牧に放った。しかし管理が適切でなかったためと、風雪に堪え難いものと考え、種子島公綱貴に数頭を与えた。綱貴は部下に命じ、安城村に芦野牧を設け、ここに放牧させ自然繁殖にまかせ、以来奇獣として世に知らるに至る。
是れ馬にして毛子捲縮(毛がちじみまつわりついている)、牛尾をそなえ、たてがみ・まえがみが欠け、奇観あるを以てなりと言う。体高は4尺1寸5分(約126㎝)である。種子島家世々相襲、保護繁殖・敢て怠る所なきも、臣下の之を養うを禁じ、又島外に出すを忌、主家島津家の命と雖も暗に之を厭ひ、厳命に接すれば、特に繁殖力の乏しき牝牡を選抜して献じたと言う。
天保年間(1,830~1,844年)の編、三国名勝図絵によると、芦野牧の「ウシウマ」は約50頭であって、10名の駒奉行を置き、牧見廻りに同島の各牧を管理させた。
維新の当時、此の奇獣、種子島公の牧場たる安城村芦野牧内(西ノ表より4里)に牝牡合計約60頭飼養しありたれど、廃牧に臨みてしばらく之を島内貧民に配興し、以来年月を追って族滅に傾かんとするや、隅々同島人・田上七之助之をなげきし。
明治25年(1,892年)中、東奔西走捜索の後、西ノ表に於いて僅かに其一を獲るを得たり。時に此の奇獣の年齢は30年にならんとせりと言う。(明治28年ー1,895年ー斃死)
即ち直ぐに自家所有の牧場内に、50~60頭の土産馬中に之を放ちしに(藩政の頃、田上氏は「ウシウマ」牧に接して一馬牧場を有し、常に雑種を生せしも、其佳良なるものは、しばらく主公に取り上げられたりと言う。此の実見有りしを以て即ち今回交尾を試みたりと言う)3頭の雑種を生し、内2頭は牝にして和馬に近く、他の1頭は能く「ウシウマ」に類似するを以て、明治29年(1,896年)冬同氏寄留地なる鹿児島市に引き来たれり。吾人の実見したるは、即ち是にして、体高4尺1寸5分(約126㎝)普通栗毛・たてがみ・まえがみ繊軟、わずかに其痕跡を存して少し捲縮し、尾はロバのものに似て、尾端に短毛を有し、尾根に近づくに従い、毛子を滅し、全身の被毛極めて細密、顔面小許の部位を除くの外、耳・けずめ毛の嫌なく、10本位宛相集いて、よく正円形に綣縮して奇観呈 する外、歯列・骨格・蹄形ならびに、いななく鳴き声に変状なく、亦背に駱線(鰻線の誤り)・肩に斑線なきも、後肢に附蝉(ふぜん)を欠くの異点あるを認めたり。真の「ウシウマ」は能く粗食に堪えて廃病少なく強力にして、蹴り上げの癖少なく能く人に慣れ、一且決する所あれば、剛頑にして制御困難を感じ、本馬亦これ等の性質を留めけると言う。
馬の各部位の名称
馬史を按ずるに、ロバに3種の変種あり。その半ロバは、ロバと馬の中間に位すべきものなりと雖も、精細に之を倹すれば、馬に近似の点多きも、類縁はかえって変種の一たるアジアロバに近く、その体貌はロバよりはるかに美麗にして、耳は馬より長く、たてがみ尾蹄はロバに類し、附蝉は前肢著名なれども後肢に存せず。けづめも亦不明なり。その毛色は淡褐にして鰻線黒色を呈す。此の動物は常に強剛なる牡獣の統御に属せる群れをなし、性質は頗(すこぶ)る荒く、人に慣れさせること難し。アジアの山地に棲息し、チベット及び蒙古に散在すると言う。実見の雑種及び聞くところの真の「ウシウマ」なるものは、此の説明に符合する点少なく、又日清役従軍中、かつて韓地に於いて之に類似のものを目撃したることなきて、多少の変化を受けたるにあらざるにして、しばらく疑義を存じて識者の結論を待つ。
産馬大鑑は明治40年に発行された書であるため、それ以降の「ウシウマ」は別資料により続ける。
昭和5年(1,930年)頃、その数10数頭に過ぎなかったので、世に類例のない珍種の絶滅を恐れ、昭和6年(1,931年)国の天然記念物に指定し保護をはかることにした。以来、その系統は保たれてきたが、第二次世界大戦の激化にともない、飼養者であった西之表市安城住の田上雪男氏の応召により、管理不円滑と飼料難のため次々と斃死し、遂に最後の1頭第4田上号も昭和21年(1、946年)6月に斃死し、貴重な文化財もその姿を消した。
「ウシウマ」について、多年研究を続け、その保護に側面的援助を与えられた鹿児島大学名誉教授日野光次氏は、この絶滅を悲しみ、前記田上氏に死体の処置について照会したところ、同氏が埋葬した第4田上号の骨を保管していることを知り、同氏と相謀り、その骨を鹿児島県立博物館に寄贈することになった。鹿児島大学教授林田重幸氏はその骨を骨格として復元を依嘱されたが腐食した部位もあり、完全骨格に組み立てることは不可能であったから、入念に補修し、頭骨・胴骨・右側肋骨、及び右側の前後肢を組み立て、左側の肋骨と前後肢は別に保管することにした。
組み立ては、昭和38年(1,963年)2月28日に終わり、同日、ガラス張りケースに収められた。
前回記載の「アラビア馬」や「ウシウマ」の血統が、現在のトカラ馬・その他の馬への有無は全く分からない。
平成28年度の「日本在来馬」の総数は、1,757頭と前年比△62頭である。
「ウシウマ」の悲劇を2度と起こしてはならない。
引用 産馬大鑑
「ウシウマの骨格」 林田重幸氏
ウシウマ「牛馬」 日野光次氏
鹿児島県畜産史上巻
新アルトメイトブック馬
日本史小典
協力 鹿児島県立博物館
鈴木純夫