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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅷ:トカラ馬ー産馬大鑑②

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     島津氏一族系譜略図


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      九州南部の地図

 建久4年(1193年)、島津忠久公(初代目・得佛公)封を受くるや(九州南部の地を与えられたが、図の部分を面として与えられたのではなく、点と点の様に一部分を与えられた)、本田静観(正しくは、本田宗親:ほんだ むねちか)をして、先つ来て国を観せしむ。(忠久公は鎌倉に在住しており、家臣の本田宗親に頼朝から与えられた国を観に行かせた)
 同5年(1194年)10月に至り宗親乃ち馬牧を瀬崎野に建てしむ。瀬之浦・加志浦・里多尾・脇本・宇波崎・あい屋・口尾島等は地名異なりと雖も、背牧ノ内に属す。
 同7年(1196年)8月1日、卿歳(忠久公)18歳にして初めて御下向あり。直ちに右牧場御巡覧の為、御居城即ち出水郡「木ノ牟礼城」を御発進、小字くつわ石を経て駒返しに至り、更に方向を転じて小字桟敷の段に至り、其適当の地なるを認められ、御帰城ありしと言う。(因に言う瀬崎野は、明治4年(1871年)8月を以て廃せられたり)
 道鑑公(5代目・貞久公)に至り黒多尾に狩りす。
 定山公(貞久公3男・師久公のことか?)、貞治7年(1368年)3月27日、執印友雄(執権北条氏の家臣で姓は不明であるが、名を友雄と言う)に書を賜い、寄田の牧領せしむ。齢岳公(貞久公4男・氏久公)また、友雄に書を賜う。「聖栄記」に、氏久公、馬を瀬崎・佐野・高原(並在荘内)・鹿児島・吉野・(大瀬多尾)・頴娃・小牧(嶽腰)・市木・大峯等の馬牧に乗り給うことあり。
 寛正6年(1465年)、大嶽岳公(9代目忠国:島津氏一族系譜略図では10代目)、弓馬の法を悉く(ことごく)、川上道安(吉野川上の領主であった、川上親久の子孫)に授けられ、道安をして、しばしば馬を市木に閲せしむ。文明年間(1469~1487年)の初年、節山公(11代目・立久公)、道安に高江寄田の牧を賜い、馬牧に従はしむ。
 永承年間(1046~1053年)、伊集院に春山野あり。天文年間(1532~1555年)、加世田に野間野あり。與に馬牧ありたり。「邦馬略記?」に依れば此年間?、羅馬(ロバ・ポルトガル)及びオランダの人、アラビア馬を此国に輸せり。時の執権足利氏は、馬種の改良の緊要なるを知らず。普(あまね)く之を広く海内に分かち、其繁殖を図らざりを以て、藩主は領内に置き独占。之が増殖をなせりと言う。(之を古老に聞くに藩時、薩摩吉野牧の内に一部を画して(境を作って)唐(から)の牧と称する。特別の牧場ありたり。本場の産馬は、骨格偉大・羊頭細耳にして頸細長・皮膚非薄・毛子繊軟。歩法馬車馬の如き馬は特殊な属種たりしと。古老の目撃したる所にて、廃藩の際、しばらく人民に払い下げられたり。口碑に言う。本馬の由来は、往古種子島に外人輸入の馬を藩主朝聞をはばかり、ひそかに揖宿に上陸せしめて、本牧場引き入れ、繁殖図りたるものなりと。是れ即ち天文年間の輸入に係ることは本文を見て明らかなり)
 鹿児島馬の素あるを知るべきなり。天正元年(1572年)の御陣賦(ごじんぷ)に御厩奉行有之。「上井党日記」に「同2年(1573年)常に出仕申すごとし。和泉(按するに出水にて島津義虎公)、瀬崎ノ馬追なされ候、無品に候得共、駒一疋進上の由御申し候。(中略)やがて御返事は、瀬崎駒御進上候。殊に一段之駒にて候。かぎりなく御秘蔵候て、いかさま(?)御参上の砌、之御覧なされるべき由候とあるを散見せり。同4年(1575年)丙子4月、近衛前久公、鹿府(藩主の在所)に賓たるや(薩摩藩主・島津氏が敬うべく客人として招いた)
 貫山公(不詳)、馬追いを御覧に供せりと言う。同8年(1579年)4月14日、始めて廻野牧を置く。同14年(1585年)8月14日、牧神を創(はじ)む。狼害を制するなり。又、曾於郡に春山野あり。平野にして清水あり。鹿野に高牧野あり。幸侃(こうかん・日柄が良い日)の時に至りて、之を廻野牧に移すと言う。又、伊昨に伊昨牧あり。今上使対條(?)は即ち、吉野・比志島・東郷・笠山野・頴娃野・唐松野・加世田野・間野・下甑野・上甑野」・出水瀬崎野・長崎野・高江寄田野・市木野・伊作野、是を薩摩の牧となす。
 蒲生青色野・曾於春山野・福山野・鹿屋高牧野・末吉野・佐多野、是を大隅之牧となす。
 皆馬牧にして、牛牧なし。
 この文面から、日向が島津氏以外の家、つまり、高鍋藩・秋月家の治世地になったことがわかる。まさしく「御崎馬」がこの時代から飼養され始めたのである。
 九州南部の地で、往古より「馬産」が盛んに行われていたことが記されているが、この地に「南部馬」「三春馬」
の移入の記録が無いのが残念である。
 また、西洋馬が火縄銃と共に種子島に伝来し、島津氏が産馬したとあるが、他藩の馬との違いを知るために、更に読み続けなければならない。

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  アラビア馬


 種子島氏の記録を以下に記す。

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 国史に初めて登場するのは、天武6年(677ねん)2月、天武11年(682年)7月には、種子島人・屋久島人・奄美島人の記録が「日本書紀」にある。
 淳仁5年(762年)、茅原王と言う人物が都から配流になって以来、幕末までの間に幾多の有名・無名の人物が左遷あるいは配流でやって来た。これらの人々がもたらした口承文芸、あるいは昔話の数も少なくないと思われる。
 13世紀初頭に、平信基が南海12島を受封して以来、その子孫と言う種子島氏が種子島を支配した。
 種子島氏の支配は、14世紀以降、維新当時まで及び、数百年間統治し続けた。
 従って、古い文化を良く温存し得たといえよう。
 現在は、牧はなく、主産業は農業である。漁業も盛んであるが、小型船による沿岸漁業が主である。農業は、稲・サトーキビ・カライモ(サツマイモ)・タバコなどを産し、温かい気候を利用し、輸送園芸・ポンカン・タンカンなどの栽培も行っている。


   引用                      産馬大鑑
                            日本書紀
                            戦国史 書10 薩摩島津氏
                            鹿児島県の馬・牧
                            鹿児島県畜産史上巻
                            中世期の種子島氏と南九州海域
                                                             種子島の昔話
                             日本史小典

  協力                       鹿児島県黎明館



            鈴木純夫


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