開聞岳:標高、924m
橋牟礼川遺跡の場所
国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡は,指宿市十二町下里・橋牟礼に位置する。遺跡は海岸に向かって緩傾斜する標高20m前後の火山性扇状地にある。
国指定史跡に指定されたエリアを国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡と呼んでいる。
橋牟礼川遺跡の発見は、大正4年に指宿村出身で、当時、旧制志布志中学の学生であった西牟田盛健が土器を採取したことによる。その後、大正6年の山崎五十麿の報告によって、アイヌ式土器と弥生式土器が同時に出土する遺跡として全国に知れるところとなった。
これが契機となって、大正7,8年に濱田耕作、長谷部言人らによって発掘調査が行われ縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが日本で初めて層位学的に実証された。この成果をもって大正13年には、国指定史跡に指定され、昭和54年に2.36haが公有地化されている。
大正の調査以後は、昭和23年に山崎五十麿、寺師見国、村野守治らによって鹿児島県国立公園候補地学術調査が行われ橋牟礼川遺跡の重要性が追認された。
その後、昭和49、50年に確認調査が行われ、国指定遺跡の範囲内に奈良~平安時代の土壙墓群や古墳時代の土器の捨て場などが発見されている。
平成3年まで行われた発掘調査で、度重なる開聞岳の噴火によって火山災害を受けた遺跡であることや、古墳時代の大集落があることがわかった。特に、平安時代(西暦874年3月25日)の開聞岳火山灰に直接埋まった当時の集落が発見され、注目を集めた。遺跡の重要性に鑑み、平成4年度からは、重要遺跡の範囲確認調査が行われ、平成8年度には、新たに1.86haが国指定史跡の追加を受けた。
濱田耕作は、指宿遺跡の発掘調査報告書の中で、橋牟礼川遺跡のことを「先史時代のポンペイ或いはサントリン」と称したが、その予見はまさしく的中した。
昭和63年には火山灰の重みで倒壊した建物跡が発見され、西暦874年の開聞岳の火山災害を直接受けた遺跡が保存されていることが証明された。その後の調査でも通称紫コラと呼ばれるこの火山灰の直下から、畠跡や道跡、貝塚などが発見され、当時の集落がそのまま埋没していることが確認された。特に畠については広範囲から出土されており。西暦874年時点で橋牟礼川遺跡では畠が営まれていたことが明らかになっている。
橋牟礼川遺跡では、西暦874年3月25日の地表面を掘り下げると7世紀第4半期開聞岳噴火によって堆積した火山灰、通称青コラが堆積している。この青コラの下層から古墳時代の大集落が発見されている。竪穴住居群、土器捨て場、貝塚、溝状遺構、道跡等の遺構群が発見された。また遺物では、大量の成川式土器の他、初期須恵器、子持ち勾玉、青銅製鈴青銅製鏡片等の威信材も出土している。
古墳時代の共伴出土物から一緒に出てきたため、年代・雌雄は不明
平安時代の馬の歯
江戸時代の馬の歯
日本最古の馬鍬の跡
鍬があることは、鉄が既にこの地に移入していることが分かる
鉄さい
鉄鏃(鉄の矢じり)
刀子(短刀)
ふいごの羽口
製塩土器
以上、橋牟礼川遺跡の古墳時代の出土物を見ると、この地に大豪族がいた可能性や、「馬」の「歯」が古墳時代~江戸時代までの地層の中に埋もれていたことは、産馬大鑑②の資料から説明することとする。
引用 「指宿市教育委員会1996「橋牟礼川遺跡Ⅵ」
「指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書」
協力 時遊館COCCOはしむれ
鈴木純夫