産馬大鑑は明治40年に、陸軍大学校教官・1等獣医 原島善之助氏により著作・発行されたものである。そのため漢字に、旧字・異体字が多く、「大辞典ー上田万年著、講談社」「字通ー白川静、平凡社」にたより著作者なりに読んだが、誤訳について読者の皆様からご指摘頂ければ幸いである。
産馬の淵源(えんげんーはじまり)は、邈古(ばくこーはるかむかし)窺(うかが)ふ可からざるも、古史を繹(たづ)ぬるに、大隅国曾於郡春山野牧の地(東曾於郡恒吉村と市成村とに跨る諏訪原の一部を言う、良馬産出主脳の地たり)は、天孫御牧と稱(とな)ふ、傳(つた)へ云う。
皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の初めて置き給う所にして、上古天馬の遺産として霧島、韓国獄、の邊(あた)りに馬の蹄痕往々あり。其馬曁鬚(あごひげ・たてがみ)飽迄(あくまで)長く、険壑(けわしいたに)を躍騰(はやくのぼる)すること飛鳥(とぶとり)の如くなりしと云う。是に依て之を見れば、神代(かみよ)の古厩󠄃(ふるいうまや)に業(なりわい)に馬を此地に牧養にせるものの如し。其起因の遠き、實(じつ)に豫想(よそう)の外にありと謂ふ可し。降りて「推古紀」に、皇朝に於いて冠絶(かんぜつー最もすばらしい)たる品目(ひんもく)を品定(しなさだめ)せられし歌に曰く、「宇麻奈羅姿僻武加能古摩ーうまならばひふかのこま」と云う句あり。乃(より)て在馬也日向駒と云う事にして、其日向と云うは大隅薩摩をも併せ稱せるものなり。
天保4年(1833年)の鹿児島県・宮崎県の地図
「書紀」に「日向国出千里駒ーひゅうがのくにせんいごまいで」」、又大伴人「献青馬白髪尾-あおめしらおをけんず」の文字あり。「姓氏録」に、允恭帝の時((在位:412~453年)、湯座連(ゆざのむらじ)を遣わして薩摩に来たり、隼人(はやと)を平治(へいじーちんあつ)せしむ。其復奏(ふくそうーこうふくのあかしとして)するや、馬一匹を献ず。「額毛如町-ぬかげあぜのごとし(ひたいの毛がしっかりしている)」。「帝喜乃賜姓額田部云ーみかどよろこびて、ぬかたべのせいをたまうという」。「三代実録」に貞観2年(860年)10月18日大隅国吉多野神の二牧を廃す。馬多く蕃殖して、百姓の作業を害するに由ると云う。「延喜式」に、日向に牛馬の牧を置か所謂(いわゆる)、野波野馬牧、提野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、馬野牛牧、三原野牛牧」とす。然して馬は5・6歳、牛は4・5歳、各荒刷剉(こうさつりー毛並みを整えたり、角を切ったりする事)を備へ、大宰府へ送らしむ。帳は馬寮に進み(とばりは、めりょうにすすみー馬を専門に扱う部署の陣幕の中に進む)、凡そおお祓いの馬は(神職によってお祓いを受けた馬)、正税を以て買はしむ。價稲(価稲―稲の値段)50束を過くる事を得ず、又驛馬(えきうま)缺乏(けつぼうー欠乏)すれは、繹稲を以て市替するがため、其直法(じきほうー決めた値段)は一定せられ、其各国の相場を列記せるものの内、大隅、薩摩、日向三ヶ国の驛馬」は、上一疋400束、中一匹300束、下一匹200束とすとあり。朱雀帝(在位:930~946年)承平4年(934年)甲午7月17日、乙卯薩摩国唐馬一匹を進む。諸縣郡福山以東、末吉、恒吉の如き諸所、山川峻峭(しゅんしょーけわしい)にして岩石磊累(がんせきらいるいー石や岩がゴロゴロしている)、其牧畜の如き、毎艱難(かんなん)を経、備さに辛苦を甞(なめる)めたり。故に其駿健なること殊に勝れりと記すものあり。「伊昨記」に寿永中((1182=1185年)源将軍頼朝の佐々木高綱に賜いし池月(生月)は薩摩国頴娃(えいあい)郡池田の牧より出つとあり。淳之介(?)甞て頴娃村を過ぎ、之を探問するに、池月は頴娃野に産し、常に池田の池の水を呑む。一躍池中を渉ること數次、池月とは池田の一字を取りなしものなり。明治4年(1871年)頃迄は、其後裔(こうえいー子孫)残り、之を開門神社に献納し、神馬とし飼養しつつありき。其毛色は池月と同じく、連銭葦毛(れんせんあしげ)にして牝馬なりし。
頼朝諸国に一ケ所つづ地を卜(うらない)し一寺を建立する。其名を安養寺と名つく。薩摩の国に於いては今の頴娃村尋常小学校設立の地に建立せしと云う。池月の墓は、現今姶良郡重富村別府川の川畔にありと傳ふ。池月に就き當記ありしも、今は紛失し、其所在を知らすと、遺憾と云う可し。(佐々木高綱が乗りたる池月の産地は、疑義に属するも、口碑に依り茲に付記せしのみ)
生月(いけづき)「平家物語絵図」より
上記説明書きに、生月が「連銭葦毛で牝馬」とあるが、明治以前までは軍馬は全て牡馬であり、毛色は平家物語絵図の様に「鹿毛」である。
家畜として馬を連れた渡来人が、4世紀後半~5世紀に、朝鮮半島から北部九州ー瀬戸内海ー現在の大阪府四条畷市に到着するや、馬を連れた渡来人が、東方を目指したことの証明に固執し、本ブログでは掲載してきたが、本著から北部九州から南下したことにも以後、考察しなければならないという思いに至った。
解読指導 豊田市芳友町 芳友寺住職・安藤源亮氏
鈴木純夫