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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ:北海道和種馬ー朝鮮の歴史から①

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  白頭山 朝鮮半島の北端にある標高2,744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、檀君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。


 朝鮮半島にいつから人類が住んでいたか明らかではないが、そこに居住していた人々が旧石器時代・新石器時代を経たことは確かである。朝鮮半島の代表的な旧石器時代遺跡は約50万年前まで遡るものと推測されている。人々は洞窟や岩陰、川端に集団で居住し狩猟と植物採取をして生活していたと思われる。
 紀元前8,000年頃から新石器時代が始まる。旧石器は石を打ち割って作ったものであるが、新石器は表面を磨いて作ったものである。新石器時代の重要な特徴として挙げられるのは磨製石器と櫛目文土器(櫛で刷いたような文様ある底のとがった土器)である。

イメージ 2後期旧石器時代の遺跡から出土した。九州の後期旧石器特有の「剥片尖頭器」や西北九州の細石核との関連が注目される。





























イメージ 3尖底で、「トチの美形」を呈し、口縁に短斜線文帯、胴部に魚骨文風の平行屈折文がある典型的な櫛目文土器































 この櫛目文土器は紀元前4,000~3,000年頃に出現して広範囲に拡散し、主に川辺や海辺で数多く発見されている。新石器時代の人々は主に川辺や海辺に竪穴式住居を作って狩猟と漁労を行い、後期になると基礎的な農耕を行っていた。農耕が発達し始めると新石器人はたちは居住地を主に丘陵地帯に移した。後期櫛目文土器の底が平らになったことが、このことを物語っている。

イメージ 4円形または隅丸方形の新石器時代の竪穴阿住居。床面中央の河原石で炉が設けられ、柱穴がみられるところから屋根が円錐形の土幕形式のものである。



























 
 穀物の栽培は紀元前2,000年頃から始まったものと思われ、アワ・キビ・ヒエなどが主な農作物であった。紀元前10世紀頃からは一部の地域ででは稲作も行われていた。

イメージ 5炭化米
アワ・キビなど5種類の雑穀とともにジャポニカ種が出土した。

































 この当時の社会は、親子関係を中心とする家族が集まって集団を形成する氏族社会であったと考えられる。このような氏族が新石器時代の基本的な社会単位となり、多くの氏族が連結して部族を形成していたものと思われる。
 稲作が始まった紀元前10世紀頃からは青銅器時代が始まった。この時期の特徴として挙げられる遺物が琵琶形銅剣と無紋土器である。青銅器時代にも農機具はやはり石器であったが、多様な用途の農機具が作られていた。農作では雑穀だけでなく、稲作も始まって生産力が大きく成長した。住居は地上に穴を掘って作った竪穴式であったが深さが浅くなって地上家屋に近くなった。
 また、この当時には巨大な自然石を利用した支石墓や石棺墓などの墓が作られていた。銅剣や巨大な支石墓の中には大きなものは重さが数十トンに達するものもあり、多くの人々を使って巨大な石を動かすことのできる強力な権力を持った勢力が、このころに成立していたことを裏づけている。
                                                                                                                                                            
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 農耕の始まりとともに原始共同体関係が解体され、生産物と生産道具を独占的に所有する支配者が登場した。こうした支配者は土城や木柵で城塞を造り、周辺の部族や氏族を支配するようになったと思われる。この初期の「国家」を「城邑国家」と呼んでいる。このような「城邑国家」として最も早く歴史に登場してくるのが「古朝鮮」である。「古朝鮮」は紀元前2,333年に朝鮮民族の始祖とされる「檀君王倹(だんぐんわんごむ)」が建国した「檀君朝鮮」、中国の殷の箕子(みじゃ)が建国したとされる「箕子朝鮮」、中国の燕から亡命した衛満(ういまん)が建国した「衛満朝鮮」までの三王朝を指す。
                                                                      
                                                                                                                                  
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 しかし最初の国とされる「檀君朝鮮」は現在では史実というより、神話との見方が一般的で、「史記」など中国の歴史書に登場する初期の朝鮮半島の王朝は「箕子朝鮮」と「衛満朝鮮」である。「箕子朝鮮」の詳しい成立年代は不明だが、「衛満朝鮮」は紀元前195年頃に成立し、紀元前108年に中国の「前漢」に滅ぼされるまで実在した国家である。
 紀元前3~1世紀にかけての中国大陸では「秦」が滅び、「前漢」が中国大陸を支配して周辺諸国との間で君臣関係が結ばれ、安定した関係が保たれていた。
 紀元前195年、「燕」の武将だった衛満(ういまん)は、「燕」から1,000人余りの人々を引き連れて朝鮮半島に逃れ、「衛満朝鮮」を成立させた。衛氏朝鮮は「前漢」との関係改善に努めて「前漢」の外臣となるものの、真番(ちんぽん)や沃沮(おくじょ)など周辺諸国を服属させて国土を拡大していき、外臣であるにもかかわらず、一度も「前漢」の「武帝」の呼び出しに応じなかった。

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 こうした衛氏朝鮮の態度は「武帝」の逆鱗に触れ、紀元前108年に滅ぼされてしまう。その後、「前漢」は「楽浪郡(なんなんぐん)」など四郡を設置して、朝鮮半島の直接支配に乗り出した。
 紀元前1世紀頃になり、「前漢」の国内が乱れて半島内での支配力が弱まると、古朝鮮の旧領民によって朝鮮半島の北方には扶余(ぷよ)、高句麗(こぐりょ)、東濊(とんいえ)、沃沮(おくじょ)などが、南方には馬韓(まはん)、辰韓(ちなん)、弁韓(ぴょなん)、伽耶(かや)などの小国の連合体が興る。北方の高句麗は、中国の勢力と対峙しながら次第に朝鮮半島へと領土を広げ、紀元313年には「前漢」が設置した「楽浪郡」と「帯方郡」などを滅ぼし、大同江流域にまで領土を広げた。
 南部においては、「馬韓」の中の「伯済国(ぺくちぇぐく)が紀元3~4世紀にかけて漢江流域の小国を統合、後に「百済(ぺくちぇ)となった。一方、紀元4世紀後半には「辰韓」の中の「斯蘆国(さろぐ)」が慶州地方を中心に小国を統合して、後に「新羅(しるら)」となり、さらに朝鮮半島南部には伽耶連盟体が生まれ、「高句麗 」、「百済」、「新羅」、「伽耶」の4国がそれぞれ覇権を争うようになる。

  上記、4国については「朝鮮の歴史から②」で掲載する。



  引用                      韓国の歴史
                           図説 韓国の歴史
                           愛知学院大学「朝鮮史」講義より



         鈴木純夫                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

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