伽耶は、洛東江(なっとんがん)西岸の6つの小国から始まった。
建国説話には、次のようにある。
伽耶9村の頭目が集団を率いて亀旨峰(きじぼん)に上がり「亀旨歌」を歌いながら踊りを踊って遊んだことがあった。そのとき天から黄金の卵を得て、その卵から男の子が6人生まれたという。その中で最初に生まれた子が首露(すろ:42~199年)であり、それぞれが王になった。
6伽耶の中でも最も発展した国が金海(きめ)にあった金官伽耶であった。金官伽耶は洛東江流域の肥沃な沖積平野を支配し、農業の発展に最適であった。
さらに楽浪郡と倭との海上交易拠点として急速に発展していた。この時代、この地域で生産される豊富な「鉄」を用いて、中国・倭との交易の中心地になった。大量に生産される「鉄」で優れた鉄製の道具が多く作られた。
このような鉄器を楽浪郡・倭に輸出し、両地域の交易を中継することで経済力を大きくした。
伽耶は高い水準の文化を持ち、その文化は後に新羅に大きな刺激を与えた。また一部勢力は倭国へ進出し、倭国文化の発展と国家成立に寄与した。
しかし、伽耶6国に分かれており、連盟は構成したものの、強力な統一国家が出来なかった。
それは、小国それぞれが交易を通じて経済力を大きくし独立していたためである。
これら伽耶国は早い時期から、領土問題を巡って、新羅と洛東江下流地域で何回も戦ったが常に敗れていた。こうして洛東江東岸への進出に失敗すると、伽耶は西方の百済と緊密な関係を結んで新羅をけん制した。
4~5世紀初めにかけて新羅が強大化すると、伽耶は大きな打撃を受けた。
しかし、高句麗が平壌に遷都(427年)すると、新羅と百済は高句麗の南下に対応しなければならなくなり、その間隙を突いた伽耶は勢力を回復することが出来た。
このとき6伽耶は高霊(こりよん)を支配していた大伽耶を中心に統合しようとした。
大伽耶は、伽耶の代表勢力に成長し、新羅・百済・高句麗の3国と競争しながら中国の南朝に使臣を送った。
新羅23代法興王(ぽぷんわん:532年)、金海の金海伽耶(きめかや:10代仇衡王)が新羅に服属した。
危機意識を感じた伽耶の諸国は、大伽耶を中心に新羅と立ち向かい、百済と同盟を結んだ。
そのため、554年に新羅と百済の間で管山城の戦いが起きた時には、伽耶は百済を支援した。
しかし、この戦いで新羅が勝利したことで、伽耶は不利な立場になった。
伽耶は新羅と百済の圧迫と攻撃を受け徐々に勢力が弱体化した。
結局、伽耶は新羅と百済の狭間にあって古代国家に発展できなかった。そして新羅の攻撃を受けて大伽耶が滅亡すると、歴史上から姿を消した。
11代垂仁天皇~29代欽明天皇の時代に、伽耶との最新の文物・知識が倭国に伝えられ、漢氏(あやし:百済・伽耶系)や秦氏(はたし:新羅・伽耶系)の渡来人によって倭国文化に大きな影響を与えた。
このように、伽耶は百済や新羅と対抗し得る性欲には成長できず、国家の競争の中で新羅に滅ぼされた。
これは、伽耶の文化水準が低かったのではなく、政治的統合の中心に成り得る国が存在しなかったのである。
伽耶の古墳図
金海地方から出土(5世紀頃)
金の冠
金の耳飾り
指輪と勾玉
引用 図説 韓国の歴史
加耶と倭
韓国歴史地図
海を渡った日本文化
日本史小典
鈴木純夫