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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ:北海道和種馬ー新羅②

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イメージ 1金製の冠







































 新羅は三国の中で最も発展が遅れていたが、6世紀に入ると次第に基盤を固めて行った。
 6世紀初めの第22代智証王(金氏系・ちじゅんわん・500~514年)の時代には、農業生産が増大した(農機具を改良し牛耕(ぎゅうこう・502年)が用いられるようになった)。それに伴い殉葬も禁止され、農業労働力が安定的に確保できるようになった。首都の慶州では市場も開かれるようになった。
 国家が発展したことで、国名も「徳業を日に新しくして四方を網羅する」と言う意味の「新羅」と定められ、王権も強化され、王の称号も麻立干(まりぷかん)から中国式を取り入れて「王」と変えられた。

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 さらに新羅は優勢な軍事力と武器で、周辺の諸地域を征服した。このようにして国の容貌を新たにした新羅では、第23代法興王(金氏系・ぽぷんわん・514~540年)の時代に国家体制がさらに整備され、律令を頒布し、貴族の反対を押し切って仏教を公認し、思想の統一を図った。また、領土拡張において中心的な役割を担うようになった、兵部と真骨(ちんごる)貴族会議の代表である上大等(さんてどぅん)を設置し官位の高低によって服の色を変える公服制を実施するなど、官僚体制の枠も固めた。最終的に新羅は中国の年号を使用するようになったが、これは新羅が対内的に王権が確立し、対外的に中国と対等な国家であるという自覚を持っつていたことを示す。新羅が、第24代真興王(金氏系・ちぬんわん・540~576年)の時代に領土拡大を行えたのは、このような様々な努力の結果である。

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 真興王は活発な征服活動を行い、伽耶連合の全地域を征服して洛東江流域を掌握した。さらに百済と共同で高句麗を攻略して漢江上流の10郡を奪い、百済から漢江下流地域を奪って漢江流域を独占した。その後、北に攻撃方向を変えて江原道と咸鏡道の海岸地方まで進出し、征服した地域には巡狩碑を建立した。
 新羅の漢江流域進出は重要な意味をもった。まず、新羅はこの地域の豊富な生産物と人民を抑えることによって国力を大きくし、三国間の競争で優位に立った。さらに、黄海を経て中国と直接交渉することが出来る海路を利用して、東アジア国際社会で確固たる地位を築いた。

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イメージ 6ガラス瓶






































イメージ 7ガラス玉首飾り







































  新羅は漢江流域を占領してから管山城の戦いで百済軍を破り、伽耶に対しても最後の攻撃を行った。
 新羅は阿羅伽耶と非火伽耶を次々と征服し、562年には高霊(こりょん)の大伽耶も征服して洛東江一帯を完全に征服した。肥沃な穀倉地帯であり海上貿易の中心地でもあった伽耶地域を手に入れたことで、新羅の国力はさらに大きくなり、咸興平野まで進出した。
 真興王は領土拡大に自信を得て、自分を帝王または、朕と呼び、独自に「開国」と言う年号を使用した。
 15~16歳の貴族の子弟の中から優れた人材を選んで「※花郎ーふぁらん」と呼び、その下に多くの青少年を集めて山川を巡りながら心身を鍛えさせた。彼ら花郎徒は三国間の戦争と新羅による統一の過程で重要な役割を果たした。


 ※花郎
 花郎とは、新羅の貴族出身の青少年で組織された集団の頭の呼称で、15~16歳の青少年が女装をして麗しく着飾っていた。前身である原花(うぉんふぁ)という集団では、南毛(なむも)と俊貞(ちょんぴょん)と言う二人の麗しい少女を頭としたが、嫉妬が高じて俊貞が南毛を殺すと言う事件が起こり、頭を男性に変えて女装させる。その団員たちを花郎徒といい、これは新羅にしかない制度で国造りに大いに貢献した。その集団を支えた精神を花郎道精神といい、それは統一新羅を樹立する礎になった。
 花郎集団は新羅の人材教育の組織で、集団の構成員数はときによって異なるが200~1000人ほどであった。花郎徒は武術や身体・精神を鍛えながら軍事に備えるが、平時は景勝地を逍遥し吟行しながら歌舞を楽しみ、戦のような国事が起こると国のために殉ずる精神を鍛錬していた。
 花郎は兜卒天(とdそつてん)から下生した弥勒菩薩にたとえられるほど称揚され、将軍職に就く多くの人材を輩出した。「世俗五戒」と呼ばれる五ヶ条の精神修練は、儒教・仏教・道教の三教にもとづき、忠君愛国の精神を修養した。

イメージ 8花郎の理想の青年像









































    引用                     図説 韓国の歴史
                            韓国の歴史を知るための66章
                            愛知学院大学「朝鮮史」講義






        鈴木純夫

























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