新羅は12の小国からなる辰韓を母体として発展し、韓国の歴史上初めての統一国家を樹立し、一千年近く続いた国である。韓国史上一千年近く続いた国はほかにはなく、しかも王朝を新興勢力の高麗に平和な形で移譲したために多くの文化や芸術が遺った。
三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一つである辰韓は、紀元前100年頃から紀元後300年にかけて、今の慶尚道エリアに点在していた12の小国の総称である。小国を束ねていたのは、後の慶州を地盤にしていた斯盧国(さろこく)であった。辰韓の領域については、漢江(はんがん)下流を上限とする説もあるが、今の洛東江(らくとがん)の東側の慶尚道付近だとする説が有力である。
辰韓は秦韓とも書き、「三国志」などによると衛士朝鮮の遺民や、秦の亡命者たちがそのエリアに移住して青銅器や鉄器文化を普及させながら、小さな集団・小国を形成していたようである。
倭国に話を転じると、大和朝廷に渡り「秦造ーはたのみやつこ」の地位を与えられた秦氏は、中国の秦国からではなく秦韓(辰韓)から渡ったのである。
記紀に登場する秦氏が倭国に渡るのは秦国が滅んで数百年の後であり、そのころの秦国の遺民を名乗るとは考えられない。
日本書記の推古天皇11年(602)にこのような記載がある。
11月己亥(つちのとい)の朔(さくー一日)に皇太子(厩戸皇子-うまやどのみこ))は大夫(まえつきみ)たちに
「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏像を得て礼拝しようとするものはないか」と言われた。すると秦造河勝(はたのみやつこ かわかつ)が進み出て「私が礼拝しましょう」と言い、さっそく仏像を頂き蜂岡寺を作った。この月、皇太子は天皇に請うて大盾と靭(ゆきー矢を納めて背負う武具の一つ)を作り、また旗に彩色をした。
「秦造河勝(生年・没年不明)は、皇太子から授かった半跏思惟象を祀るために京都の広隆寺を建てたが、河勝の祖が秦韓、つまり新羅からの渡来人だとすれば、日本の国宝第一号に指定されているその木彫仏が韓国の三国時代の半跏思惟象と似ていても不思議ではない」
新羅は朴(ぱく)・昔(そく)・金(きむ)の3姓の始祖説話からわかるように、諸集団が連合して作られたくにであった。
新羅の建国説話によると斯盧国に暮らしていた6つの村(楊山(きんさん)・高嚧(こほ)・大樹(てす)・珍支(ちんじ)・高那(こや))の頭目たちが天から降りて来た朴赫居世(ぱくひょこせ)を王として受け入れたときから新羅の歴史が始まる。
これは朴赫居世と、6つの村長が連合して建国した事実を物語っている。
実際に古朝鮮が滅亡したあと、移住民が大集団でこの地域にやっきた。
鉄製の農具を使用する術を知っていたため、彼らは土着勢力に相当な影響を与えた。したがって優秀な鉄器を持った移住民(赫居世勢力)が慶州の土着勢力(6集団)を支配しながら国家形成したと推測される。
新羅の初期支配者は居西干(こそがん)・次次雄(ちゃちゃうん)と呼ばれた。
居西干は君長を次次雄は巫(シャーマン)を意味する。
このことから、初期新羅の政治的君長が祭祀長の性格を帯びていることがわかる。
この段階の慶州平野一帯の諸集団は、政治的・軍事的な統率力お持たず、農業共同体的な性格が残っていた。これらの集団を結束させるのには、交易を通じた資源の再分配と祭祀儀礼が大きな役割を果たした。
斯盧国では慶州一帯の土着集団の間に、東海岸地域から来た脱解(たれ)勢力が支配勢力として加わるようになったが、金閼智(きむあるち)の登場で再び金氏勢力が支配するようになった。この過程で斯盧国は周辺にある小国と連合したり、征服したりしながら発展した。この段階の新羅王たちは尼師今(いさぐむ)と呼ばれていた。尼師今は連盟に属する邑落集団のリーダー会議で選出された。
朴・昔・金の3氏族が尼西今を交替で務めていた事実からこのことが分かる。尼西今時代に新羅は、朝鮮半島東南部に存在していた辰韓のしょ諸小国の中で主導権を握るようになった。
新羅は、まず南東海岸にあった蔚山(うるさん)と東萊(とんね)地域の諸小国を征服」した。この地域は海路で中国・倭国に結びついている重要な地域であった。
さらに、東海岸地域と洛東江流域の諸小国を征服して行きながら防衛に重要な地域の城を築き、伽耶や百済の侵略に備えた。
そのようにして、2世紀中頃には洛東江東側・小白山脈南側・東海岸の江陵南方にあった諸小国の大部分を服属させた。それがもとになって新羅は、4世紀後半の麻立干(まりぷかん)時代に飛躍的に発展した。麻立干は「大君長」と言う意味である、国内的には金氏による王位の世襲が確立し、建国に主導的な役割を果たした六部集団に対する王室の統制が強化された。
新羅の王位は、朴・昔・金の3つの姓氏が輪番で務めていた。
これは初期の新羅が諸勢力の連合に起源があるためである。
第13代国王味鄒(みちゅ)は閼智の子孫であり、金氏としては初めて王位についた第17代国王奈勿(なむる)以後は金氏が連続して王位に就いた。
一方、鉄製農機具・牛耕など先進的な農耕技術の普及・水利施設の拡充などによって生産力が増大した。また「骨品制ーこるぷむ」と言う独特の身分制度を整備し支配層の権威を保障した。
骨品制度
「新羅の血統主義的な身分制度で、王族の聖骨(そんごる)・真骨(ちんごる)と、一般貴族の六頭品・五頭品などから構成された。上級官職はほぼ聖骨・真骨から選ばれ、六頭品以下は官職などを制限された。
当初は聖骨から国王を選び、聖骨は父母がともに王族である朴・昔・金の三姓に限られた最上階級であった。父系が聖骨であっても母系がそれから外れた階級を真骨といい、王位継承の資格は与えられなかった。(ちなみに新羅の王は朴から七王・昔から八王・金から十三王である)
小国の連盟王国であった新羅は王侯貴族の力が強く、国王の力がその分だけ弱かった。その弊害を越えるため、国王を中心とする中央集権的な政治運営を布く過程でこの制度が生まれた。
第23代法興王(ぽっぷん)7年(520)に十七の位階に整備され聖骨出身者に限られていた王位継承の資格が真骨にひろがったのは、第29代武烈王(むよる)の跡を継いだ真骨出身の第30代文武王(むんむ)からである。聖骨出身で王位継承の資格が整っていた金春秋(きむっちょんちゅ)による王位の継承が遅れたのは、王族ではない金庾信(きむゆしん)の妹と結婚したためであった。文武王以降の王はみな真骨出身であるが、王位継承し格の枠が広がり、末葉には王位継承をめぐる争いが激しくなり国内秩序の乱れを生む要因にもなった」
国家の重大事は、真骨貴族出身の大臣にあたる大等たちの会議である「和白-はぁべく」会議によって決定した。
「和白」とは
辰韓には、六つの村(楊山・高嚧・大樹・珍支・加里・高那)がありそれぞれの村の岳・山に天降った巫人がそれぞれの村長になっていた。紀元前69年3月1日村長たちが子弟を連れて闕山(たおるちろん)の堤の上に集まって相談し合った。この集いを「和白」といい、今日的に言えば合議制に相応するが、新羅独自の制度で長い間続けられた。
新羅は其時、中国とも初めて交易を行い、自身の存在を誇示した。
一方、南部地方に倭国が侵入すると、高句麗の広開土王に救援軍を要請して倭国を打ち破り、それを契機として高句麗の先進文化を受け入れた。
対外的に新羅は4世紀末~5世紀初め、高句麗の南進によって一時高句麗の勢力下に入ったが、直ぐに百済や伽耶と同盟を結び、高句麗勢力を排除した。
さらに小白山脈以南の辰韓地域」に対する支配を強化し、征服活動を推進した。
そして中国の「北朝」に使臣を派遣するなど、国際舞台に進出していった。
※日本書紀の「皇太子」については、「日本思想史学会」で「聖徳太子」は「特定された個人を指すものでは無い」との見解を示される学者がみえると言う事で「厩戸皇子」とした。
引用 韓国の歴史を知るための66章
図説 韓国の歴史
国史大系 日本書紀
現代語訳 日本書紀
愛知学院大学「朝鮮史」講義
愛知学院大学「日本思想史」講義
鈴木純夫