態津(うんじん)に遷都してから、第25代武寧王(むにょわん在位:501~523年)時代になって一応の安定期を迎える。武寧王陵の出土品から往時の国勢と高い文化水準がうかがえる。金製の装身具・銅鏡・巻頭太刀・鎮墓獣など多種多様な豪華な遺物の発見は百済研究の上でも貴重な資料である。
「斯麻王」とは「武寧王」の事で、この誌石は「武寧王の亡くなった時」の事が書かれている。
寧東大将軍百済斯
麻王年六十二歳癸
卯年五月丙戌朔七
日壬辰崩到乙巳年八月
癸酉朔十二日甲申安厝
登冠大墓立志如左
武寧王から王位を継いだ第26代聖王(そんわん在位:523~554年)のとき首都は再び泗(さび)に移し、国号を南扶餘(みなみふよ)と変えた。
武寧王・聖王の代に百済は、中国の南朝(宋・南斉・梁)と交渉する際、黄海を南に横切る危険な航路を選ばざるを得なかった。しかし、これは百済が対外関係を広げる一つの活路であり、6世紀中葉には倭への文化輸出・技術移転を容易にさせた。
このような海上活動には百済の首都が位置していた漢江下流地域が海運に便利であるという点が大きく作用していた。このような海の貿易路を掌握した百済王室は、民衆が農業に力を出させるような政策を行い、兵器製造・軍事訓練にも力を注いだ。
こうして百済は強力な貿易国家となった。
あわせて、22部の中央官署を拡大整備し、首都の5部地方の5方制を整えて国家体制の強化を図った。
これらを土台に高句麗に奪われた漢江上流の6郡を新羅と共に攻撃し、551年に奪還するに至った。
しかし、その2年後、同盟軍の新羅が百済の領土である漢江下流を急襲して奪う事件が起きた。
これに憤激した聖王は新羅を攻撃したが、扶余から慶洲に通じる最初の関門である管山城(くわんさん・現在の忠清北道沃川)の戦いで聖王が戦死し、3万の兵士が皆殺しになってしまった。
百済の新羅に対する攻勢は以後も継続されたが、第31代義慈王(ぎじわん在位:641~660年)が即位してからはさらに激烈となり、新羅の大那城を始め40余城を奪取しただけでなく、高句麗と共に党項城(たんはんそん)を攻撃し、新羅の対唐交通路を遮断しようとした。
しかし、新羅の粘り強い対唐外交は成果を上げ遂に660年、唐の蘇定方(そていほう)・新羅の金廋信(きむゆしん)に率いられた連合軍が攻撃するに至った。
そのうえ、対外領土拡張が思うようにまかせなかった百済は内部体制も揺るぎ、支配層の内紛が顕在化していた。
階伯(けはく)将軍が、黄山(はぁんさん)平野で善戦したが、すでに戦勢は傾き、とうとう泗城が陥落するに及んで百済は滅亡したのである。
百済は、建国から僅か678年の歴史であったが、倭国との関係は非常に密であったことがうかがえる。
百済王朝滅亡の日、3、000人の官女が身を投じた白馬江(ぺんまがん)が悲しい歴史を秘めて穏やかに流れている。
引用 百済武寧王の世界
海洋大国大百済
図説 韓国の歴史
概説 韓国の歴史
韓国放送通信大学校歴史教科書
愛知学院大学「朝鮮史」講義
鈴木純夫