本来であれば、第25代・武寧王から百済滅亡までを掲載すべきであるが、平成13年(2001年)12月23日、今上天皇誕生日の「天皇陛下の会見発言(要旨)」が「百済と日本国」との関係に付いて触れられているので、その記事と続日本紀などの資料を紹介する。
天皇陛下の韓国発言
日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があっったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人がいます。
こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の友好的態度によってもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
私自信としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えています。
ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。
明年(延暦9年:790年)正月十四日辛亥。中納言正三位の藤原朝臣小黒麻呂(ふぃじわらあそんおぐろまろ)は誄人(しのびごとひと)を率いて皇太后に誄(しのびごと)を奉り、天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと)という諡(おくりな)を奉った。
正月十五日皇太后を大枝山陵(おおえのみささぎ:京都市西京区大枝沓掛町伊勢講山の円墳)に埋葬した。
皇太后の姓は和氏(やまとし)、諱(いみな)は新笠(にいがさ)で、贈正一位の和乙継(やまとのおとつぐ)の娘である。母は贈正一位の大枝朝臣真妹(おおえだあそんまいも)である。后の祖先は百済の武寧王(在位:501~523年)の子の純陀太子(じゅんだたいし)から出ている。
皇后は徳優れ、容姿上品でうるわしく、若い頃より評判が高かった。天宗高紹天皇(あまむねたかつぐてんのう:光仁天皇)がまだ即位していない時、娶り妻とされた。皇后は今上(桓武天皇)・早良親王(さわらしんのう)・能登内親王(のとないしんのう)を生んだ。宝亀(ほうき)年中(770~780年)に氏姓を「高野朝臣」と改めて今上天皇が即位すると、皇太夫人(こうたいぶにん)と尊称された。延暦9年遡っって皇太后の尊号を追称された。
百済の遠祖の都慕王(つもおう:百済の始祖で扶余を開国したと伝える伝説上の人物)は、河伯(かわのかみ)の娘が太陽の精に感応して生まれた。皇太后はその末裔である。それで天高知日之子姫尊と諡を奉ったのである。
天皇陛下:48歳、皇后陛下:47歳、皇太子殿下:22歳、秋篠宮:17歳 騎馬打毬に興じられた。
引用 朝日新聞
天皇皇族歴史伝説大辞典
続日本紀
続日本紀現代語訳
日本史小典
霞会発行「騎馬打毬」(水野氏史研究会)
鈴木純夫