百済の建国は、王朝系図から高句麗の祖と同じ「朱蒙」である事から、北方系の扶余・高句麗系統の国であった。
百済の建国説話によれば、沸流(ぷるりゅ)と温祚(おんじょ)が南に一団を率いて下って来て、沸流が弥鄒忽(みちゅふる、現在の仁川ーいんちょん)へ、温祚が慰礼(うぃれー現在の漢城ーそうる)に定着し、のちに沸流が温祚に合流。紀元前18年に慰礼に城を築き国を建てたと言う。
この英雄説話も古代制服国家の性格を伝えるものと理解される。
百済王族の姓が扶余氏であり、現在の漢江流域で高句麗式の積石塚が発見されることからも、建国説話が史実であった事がわかる。
建国の後、北は礼成江(いえそがん)・東は春川(ちゅんちょん)地方・南は稷山(じくさん)地方まで領土を拡大しており何回も靺鞨(まっかつ)を撃破し馬漢を攻撃して滅亡させた。
漢江流域は朝鮮半島中西部の要地である上に、土地が広大・肥沃であり水上交通の便が良かった。農地が多いため食料が豊富で、山間部からは武器・農機具を作るのに必要な鉄が多く産出した。このような環境は軍事力強化と経済発展に最上の環境にあった。
多少ゆるやかな形態で連盟うを維持していた百済は、漢郡県および近隣国家との勢力競争を通して、3世紀中葉には集権的な国家として座を占めていた。
第8代古爾王(こいわん、在位:234~286年)の時代には増加した領土と新しく編入した百姓(ひゃくせい=人民)を効果的に支配・統制しようと統治組織を補強した。この時六佐平(ゆくじゃぴぃよん・※)と十六等級の官職体系を作り、地方の有力な勢力を中央の貴族に編入し、さらに百官の公服を制定し律令を頒布して色々の制度を整備した。国家の公式の事務を担当する官庁も新しく設置し中央集権的国家体制を強化した。古爾王代の246年には帯方郡との間に帯方太守が戦死するほどの大きな衝突があり、これを契機に中国の郡県より優勢になった。
4世紀後半、第13代近肖古王(くんさんごわん、在位:346~375年)の時強力な古代国家に成長した。
近肖古王は大規模な征服事業を企てて王権を強化し、洛東江(らくとうこう)流域に位置する伽耶の小国数ヶ国を征服した後、栄山江(えいさんこう)流域の馬漢の小国を征服して領土を南海岸地域まで拡大した。そして再度、北方に目を向けかつての帯方郡(漢江以北の京畿道地域と慈悲嶺以南の黄海道地域)の地に進んで、高句麗軍を撃破し、捕虜5,000人を生け捕りにした。さらに近肖古王は精鋭部隊を直接率いて平壌(ぴょんやん)を攻め込み故国原王(こぐわんわん)を殺害した。
この時百済が占領した地域は、現在の京畿道・忠清道・善羅道・慶尚道の洛東江中流地域・江原道・黄海道の一部に及ぶ。
さらに百済は、楽浪郡設置以来、中国系住民が開拓した海路を通じて貿易活動を活発に行い、倭とも密接な関係を結んだ。
この時百済人の多くが日本列島に渡って活躍した。
国内では官等制を拡大して、王位も兄弟相続から父子相続に変え王妃族を秦(ちん)氏に固定し、博士高興(こふん)に国史「書記」を編纂させた。
対外的拡大にともなう内部体制の変化に対応するため措置であった。第15代枕流王(ちむる、在位:384~385年)の時、東晋から仏教を受け入れたのもそうした対応の一環であった。
しかしその後、高句麗の広開土王の波状攻撃に続いて、長寿王が南下政策を始めると百済は大きな危機を迎えた。第22代文周王(在位:475~477年)の時には慰礼城が陥落して大きな打撃を蒙った。百済は防衛に有利な熊津(うんじゅん、現在の公州ーこんじゅ)に首都を移し、新羅と同盟を結んで高句麗の圧力に立ち向かった。
公山城(こんさんそん、熊津)城内からみる錦江(きんこう)
こうして高句麗の侵攻は阻止出来たものの、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も大きく縮小した。
このように高句麗に圧迫された百済は同じような状況にあった新羅と同盟を結び高句麗の攻撃に対抗した。長寿王が攻撃してくると、第21代蓋鹵王(在位:455~477年)の時に急いで王子を新羅に送って援軍を要請した。
しかし新羅の兵20,000人が到着する前に百済は大敗し、蓋鹵王も戦死した。
その後、高句麗が新羅の北方に進入した際には、百済の第24代東城王(在位:479~501年)は新羅を助け、母山城の戦いで高句麗を打ち破った(484年)
百済と新羅は同盟関係を強化するために王室間で婚姻を結んだ。
これにより百済は、高句麗の攻撃を阻んで国力を蓄えようとした。
堤防の築造等の水利事業を国家的に管理し、朝鮮半島西南部の農地開発を進める事によって、領土の喪失により縮小した国家の基盤を補った。
また、既存の王族と扶余族系統の少数貴族中心の政治運営を終わりにして、中央の政治に参加する貴族の範囲を拡大して政治の安定化を図った。
そして、倭や南朝とも交流し対外的安定を図った、
このような努力が奏して国力は充実していった。
※六佐平(ゆくじゃぴょん)
1:内臣佐平(ねしんじゃぴん)-最上級者、王命の伝達や上訴の提供をする。
2:内頭佐平(ねどうじゃぴん)-財政担当長
3:内法佐平(ねぽうじゃぴん)-礼儀・儀礼の司長
4:衛士佐平(うぃさじゃぴん)-近衛隊長
5:朝廷佐平(ちょじょんじゃぴん)-司法担当長
6:兵宮佐平(ぴょんぐぁんじゃぴん)-地方の軍事を司る宮庁長
引用 海洋大国大百済
図説 韓国の歴史
概説 韓国の歴史
韓国放送通信大学校歴史教科書
愛知学院大学「朝鮮史」講義
鈴木純夫