4世紀~5世紀の高句麗の古墳は、「中国と雌雄を争った高句麗の姿を如実に物語っている」と言われているため古墳壁画を紹介しながら話を進める。
前回掲載までの、4世紀中期~5世紀初の古墳壁画を一挙に紹介する。
1:安岳3号墳(あんがく)-4世紀後半、墨書銘から357年頃に没した墓主のものであることから、中国と高句麗の密接な関係がうかがえるとともに、高句麗壁画古墳の起源問題を考える上で重要である。
墓主
墓主夫人
侍従武官ー頭上の墨書銘。
儀仗旗手
騎馬行列図
2:角抵塚(かくていづか)ー4世紀末のものであるが、既に相撲が行われていた事が分かる。
角抵図(相撲)
力士
生活図ー夫人達
3:舞踊塚ー4世紀末~5世紀初のもので、舞踊の姿が生き生きとして描かれ、また天井世界(朱雀・青龍・麒麟・仙人・星宿・日象・月象)が描かれている。
舞踊
天井図
吹奏角笛夫人図
4:徳興里古墳ー5世紀初、被葬者は河北省安平郡「信都縣」出身の「○○鎮」と言う人物で「永楽18年(408年12月25日)」に柩をここに移した。翌409年2月2日に墓を完全に閉鎖したと書かれている。「国小大兄」と言う当時の高句麗の官位を受けている。
墓誌銘
墓主
鎧馬騎馬隊(かいばきばたい)-高句麗が騎馬民族である事が分かる。
近接する地境洞古墳から出土の馬具
狩猟図
馬射戯(ばしゃぎ)-流鏑馬
馬射戯は追物射(おものい)・押捩(おしもじり)同時打ち(甲州和式馬術探求会演武)と同じ様にみえる。
北斗七星と神獣
牽牛織女ー天の川
王の在位表
長寿王6年(475年)、3万の大軍を送って百済を攻撃し、百済の首都漢城(はんそん)を陥落させ蓋鹵王(けんろおう)を捕らえて殺した。百済は首都を南の公州(こんじゅ)に移した。高句麗の領土は南にさらに拡大され、竹嶺(ちょうりょん)・鳥嶺(ちょりょん)一帯から南陽湾(なみやんわん)を結ぶ線にまで伸びることとなった。
5:江西大墓ー25代平原王(在位:559~590年)時代の古墳壁画、6世紀後半~7世紀初。日本の壁画にも通ずるものを感じる。
玄武図
朱雀図
青龍図
白虎図
神獣図
神鳥図
天井図
飛天図
鳳凰図
しかし6世紀後半に入ると、南では新興勢力である新羅に押されて漢江流域を失い、北では中国大陸を統一した隋と衝突することとなった。
611年、隋の煬帝の100万の大軍と乙支文徳(うるちゅむんどく)の率いる高句麗軍は清川江の戦いで激突し、隋軍は壊滅的打撃を受けた。その余波で隋は滅亡し、ついで唐が建つことになった。
642年淵蓋蘇文(よんげそむん)が王を殺して高句麗の権力を」掌握し、高句麗最後の王・宝蔵王(ぼじゃわん)を擁立した。
唐の太宗は淵蓋蘇文の征伐を口実に再三進入するが、安市城(あんしそん)をついに陥落させることが出来ず、いったん撤退する。しかし新羅と連合した唐は、660年に百済を滅ぼすと、その翌年、蘇定方(そていほう)・契苾何力(けいひつかりき)らに水陸の大軍を率いさせて高句麗を攻撃し、新羅は唐軍に兵力と郡糧を補給した。この戦いでかろうじて防御に成功したが、度重なる外患によって国力を消耗し、このすきに契丹族・靺鞨族が唐に服属するなど、情勢は不利に展開していった。
このような状況の中で淵蓋蘇文が死ぬと、久しく潜在していた執権層のあいだの内紛が表面化し、とうとう淵蓋蘇文の弟・淵浄土(よんじょんと)は12城を率いて新羅に投降するに至った。これに乗じて新羅・唐連合軍が再び侵略をしはじめ、ついに668年、平壌城が陥落し、高句麗は滅亡してしまった。
高句麗の壁画から日本との位置付けを考えると、南の進んだ中華文化とともに、シルクロードに通じる西北仏教文化と接する最前線にあり、将来された大陸文化について、これまでの南朝・百済からのルートのほか、西域西北から高句麗を経る経路も忘れてはならない。
引用 古墳壁画高句麗
概説 韓国考古学
図説 韓国の歴史
愛知学院大学「朝鮮史」講義
鈴木純夫