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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ:北海道和種馬ー高句麗②広開土王碑について

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        広開土王(好太王 在位:391~412年)碑

 高句麗を語る上で避けて通れない、広開土王(くわんげとわん)碑の内容について詳しく述べてみたい

 広開土王碑は息子の長寿王(ちゃんじゅわん 在位:412~491年)が、広開土王の死後414年に自国の領土を広げた功績を讃え、王墓の管理を規定するために建てたものである。
 しかしこの碑文の内容をめぐり、日本と韓国・中国の学者による研究は未だに活発である。
 高さ6.39mの方柱状の巨石を用い、その4面に1,800を越える文字が刻まれた東アジア最大の墓碑である。
 
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         集 安

  墓碑は、明治13年(1880)に地元の農民が「清」の集安で発見したもので、それを明治17年(1884)日本陸軍砲兵大尉酒匂景信が拓本として持ち帰り、その後参謀本部で碑文を解読した。
 現在において、未だに研究が活発な原因は、日本陸軍参謀本部が「倭」が「韓半島」に「渡海」したと解読したところにある。
 広開土王の在位期間中、日本の天皇は第16代仁徳(在位:313~399)~第19代允恭(在位:412~453)にあたる。

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                        拓本

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               拓本釈文
 その問題点について
 記事の内容は3つの段落に分けられ、第1段目は高句麗の建国に関わるものである。
 高句麗の始祖が北扶余の出である事、母が河伯(かはく 河の神)の娘であることなどが記されている。
 第2段目は、広開土王の戦功の記述が中心で、北方民族や百済・倭との戦いや王が攻略した城の名前が書かれている。
 第3段目は、広開土王の墓に330家に上る大規模な墓守集団を永遠に置くことを規定している。
 日本との関係で常に問題になっているのは、第1面から第2面にかけての記事で、高句麗と百済・新羅・倭の関係記事である。第1面8行から9行目にかけての記事に「百残新羅旧属民 由来朝貢如倭以辛卯年 来渡□(海)破百残□□□羅以為臣民」とあるが、このまま読むと「百済・新羅は旧高句麗の属民であったのに辛卯年(391年)倭が海を渡って来て百残□□□羅を破って臣民とした」と読める。
 この碑文の記事をそのまま採用すれば、当時、倭が百済の地域をも支配したことになる。実際はどうであったのだろう。広開土王碑に従って戦闘の推移を見ていくことにしたい。
 辛卯年の「破百残□□□羅以為臣民」の記事は、永楽6年(396)の広開土王自らが兵を率いての対百済の戦闘の発生の理由となっている。辛卯年の事件が倭によって引き起こされたことから、本来、高句麗の制裁対象は倭に向けられるはずで、百済・新羅は救援の対象となるべきところ、高句麗は百済・新羅をその蔑称である「百残」と呼んでおり、高句麗の攻撃の矛先は、百済だけに向けられていて、同じく倭の臣民となったはずの新羅が制裁の対象からはずされていることが大きな謎である。
 この戦闘の結果、第2面4行目7文字から始まる記事の見られるように、百済は高句麗に永遠に「奴客(どきゃく)」として隷属することを誓わされる。
 そして、2回目の大きな戦闘は、第2面6行目31文字目にあるように、永楽9年(399)に百済がこの誓いに背いて倭と同盟したことにより始まった。
 この時倭は、この同盟を背景に新羅に侵入した。新羅は、高句麗にに救援を求め、高句麗は翌年、5万の兵を送り、倭を撃退し新羅を救ったのである。
 残念ながら、第3面の先頭の部分が欠落していてこの戦闘の推移を知ることは出来ない。
 倭が高句麗と戦ったという記事は、この永楽9年の戦闘が初めてである。その後、倭は再度永楽14年(404)に帯方界に進入し高句麗と衝突したが、「斬殺無数」という損害を受け撤退している。
 以上、倭と関係ある戦闘記事を見てきたが、碑文が高句麗の立場から一方的に書かれていること、辛卯年の倭による百済や新羅支配の記事は、中国側の文献や韓国側の文献資料である「三国史記」には見られず、また、最近の考古学上の成果からも、倭が両国を支配下に入れたという記事を証明する資料が見られないことから、さまざまな疑問が投げかけられている。
 広開土王碑は、拓本の作成のため文字表面に石灰塗料されたり、さらに文字が書き換えられるなど、研究者の中には、日本軍参謀本部による意図的な改ざん説を主張する人もいる。
 「百残新羅旧属民~」に始まる記事をどの様に解釈するか、また、高句麗・百済・倭がどのような関係にあったかということは、今後の国際的な共同研究を待ち解明しなければならない問題である。


   引用            佐賀県立名護屋博物館 学芸課 廣瀬雄一氏 「高句麗広開土王碑とその時代」
                  図説 韓国の歴史
                  愛知学院大学「朝鮮史」講義
                  日本史小典

 
       鈴木純夫

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