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Ⅶ:北海道和種馬ー高句麗③

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 4世紀~5世紀の高句麗の古墳は、「中国と雌雄を争った高句麗の姿を如実に物語っている」と言われているため古墳壁画を紹介しながら話を進める。
 前回掲載までの、4世紀中期~5世紀初の古墳壁画を一挙に紹介する。
                                                                    
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 1:安岳3号墳(あんがく)4世紀後半、墨書銘から357年頃に没した墓主のものであることから、中国と高句麗の密接な関係がうかがえるとともに、高句麗壁画古墳の起源問題を考える上で重要である。

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   墓主

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  墓主夫人

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   侍従武官ー頭上の墨書銘。

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 儀仗旗手

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 騎馬行列図

2:角抵塚(かくていづか)ー4世紀末のものであるが、既に相撲が行われていた事が分かる。

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 角抵図(相撲)

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  力士


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   生活図ー夫人達

3:舞踊塚ー4世紀末~5世紀初のもので、舞踊の姿が生き生きとして描かれ、また天井世界(朱雀・青龍・麒麟・仙人・星宿・日象・月象)が描かれている

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 舞踊

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 天井図

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 吹奏角笛夫人図

4:徳興里古墳ー5世紀初、被葬者は河北省安平郡「信都縣」出身の「○○鎮」と言う人物で「永楽18年(408年12月25日)」に柩をここに移した。翌409年2月2日に墓を完全に閉鎖したと書かれている。「国小大兄」と言う当時の高句麗の官位を受けている。

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 墓誌銘

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 墓主

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  鎧馬騎馬隊(かいばきばたい)-高句麗が騎馬民族である事が分かる。

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近接する地境洞古墳から出土の馬具

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 狩猟図

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 馬射戯(ばしゃぎ)-流鏑馬
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 馬射戯は追物射(おものい)・押捩(おしもじり)同時打ち(甲州和式馬術探求会演武)と同じ様にみえる。

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 北斗七星と神獣

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 牽牛織女ー天の川


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 王の在位表

 長寿王6年(475年)、3万の大軍を送って百済を攻撃し、百済の首都漢城(はんそん)を陥落させ蓋鹵王(けんろおう)を捕らえて殺した。百済は首都を南の公州(こんじゅ)に移した。高句麗の領土は南にさらに拡大され、竹嶺(ちょうりょん)・鳥嶺(ちょりょん)一帯から南陽湾(なみやんわん)を結ぶ線にまで伸びることとなった。

5:江西大墓ー25代平原王(在位:559~590年)時代の古墳壁画、6世紀後半~7世紀初。日本の壁画にも通ずるものを感じる。

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 玄武図
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  朱雀図
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 青龍図
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 白虎図

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  神獣図

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 神鳥図

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 天井図

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 飛天図

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 鳳凰図


 しかし6世紀後半に入ると、南では新興勢力である新羅に押されて漢江流域を失い、北では中国大陸を統一した隋と衝突することとなった。
 611年、隋の煬帝の100万の大軍と乙支文徳(うるちゅむんどく)の率いる高句麗軍は清川江の戦いで激突し、隋軍は壊滅的打撃を受けた。その余波で隋は滅亡し、ついで唐が建つことになった。
 642年淵蓋蘇文(よんげそむん)が王を殺して高句麗の権力を」掌握し、高句麗最後の王・宝蔵王(ぼじゃわん)を擁立した。
 唐の太宗は淵蓋蘇文の征伐を口実に再三進入するが、安市城(あんしそん)をついに陥落させることが出来ず、いったん撤退する。しかし新羅と連合した唐は、660年に百済を滅ぼすと、その翌年、蘇定方(そていほう)・契苾何力(けいひつかりき)らに水陸の大軍を率いさせて高句麗を攻撃し、新羅は唐軍に兵力と郡糧を補給した。この戦いでかろうじて防御に成功したが、度重なる外患によって国力を消耗し、このすきに契丹族・靺鞨族が唐に服属するなど、情勢は不利に展開していった。
 このような状況の中で淵蓋蘇文が死ぬと、久しく潜在していた執権層のあいだの内紛が表面化し、とうとう淵蓋蘇文の弟・淵浄土(よんじょんと)は12城を率いて新羅に投降するに至った。これに乗じて新羅・唐連合軍が再び侵略をしはじめ、ついに668年、平壌城が陥落し、高句麗は滅亡してしまった。
 

 高句麗の壁画から日本との位置付けを考えると、南の進んだ中華文化とともに、シルクロードに通じる西北仏教文化と接する最前線にあり、将来された大陸文化について、これまでの南朝・百済からのルートのほか、西域西北から高句麗を経る経路も忘れてはならない。



     引用                古墳壁画高句麗
                        概説 韓国考古学
                        図説 韓国の歴史
                        愛知学院大学「朝鮮史」講義


           鈴木純夫

























 

Ⅶ:北海道和種馬ー百済①

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 百済の建国は、王朝系図から高句麗の祖と同じ「朱蒙」である事から、北方系の扶余・高句麗系統の国であった。
 百済の建国説話によれば、沸流(ぷるりゅ)と温祚(おんじょ)が南に一団を率いて下って来て、沸流が弥鄒忽(みちゅふる、現在の仁川ーいんちょん)へ、温祚が慰礼(うぃれー現在の漢城ーそうる)に定着し、のちに沸流が温祚に合流。紀元前18年に慰礼に城を築き国を建てたと言う。
 この英雄説話も古代制服国家の性格を伝えるものと理解される。
 百済王族の姓が扶余氏であり、現在の漢江流域で高句麗式の積石塚が発見されることからも、建国説話が史実であった事がわかる。
 建国の後、北は礼成江(いえそがん)・東は春川(ちゅんちょん)地方・南は稷山(じくさん)地方まで領土を拡大しており何回も靺鞨(まっかつ)を撃破し馬漢を攻撃して滅亡させた。

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 漢江流域は朝鮮半島中西部の要地である上に、土地が広大・肥沃であり水上交通の便が良かった。農地が多いため食料が豊富で、山間部からは武器・農機具を作るのに必要な鉄が多く産出した。このような環境は軍事力強化と経済発展に最上の環境にあった。
 多少ゆるやかな形態で連盟うを維持していた百済は、漢郡県および近隣国家との勢力競争を通して、3世紀中葉には集権的な国家として座を占めていた。
 第8代古爾王(こいわん、在位:234~286年)の時代には増加した領土と新しく編入した百姓(ひゃくせい=人民)を効果的に支配・統制しようと統治組織を補強した。この時六佐平(ゆくじゃぴぃよん・※)と十六等級の官職体系を作り、地方の有力な勢力を中央の貴族に編入し、さらに百官の公服を制定し律令を頒布して色々の制度を整備した。国家の公式の事務を担当する官庁も新しく設置し中央集権的国家体制を強化した。古爾王代の246年には帯方郡との間に帯方太守が戦死するほどの大きな衝突があり、これを契機に中国の郡県より優勢になった。
 4世紀後半、第13代近肖古王(くんさんごわん、在位:346~375年)の時強力な古代国家に成長した。
 近肖古王は大規模な征服事業を企てて王権を強化し、洛東江(らくとうこう)流域に位置する伽耶の小国数ヶ国を征服した後、栄山江(えいさんこう)流域の馬漢の小国を征服して領土を南海岸地域まで拡大した。そして再度、北方に目を向けかつての帯方郡(漢江以北の京畿道地域と慈悲嶺以南の黄海道地域)の地に進んで、高句麗軍を撃破し、捕虜5,000人を生け捕りにした。さらに近肖古王は精鋭部隊を直接率いて平壌(ぴょんやん)を攻め込み故国原王(こぐわんわん)を殺害した。
 この時百済が占領した地域は、現在の京畿道・忠清道・善羅道・慶尚道の洛東江中流地域・江原道・黄海道の一部に及ぶ。

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 さらに百済は、楽浪郡設置以来、中国系住民が開拓した海路を通じて貿易活動を活発に行い、倭とも密接な関係を結んだ。
 この時百済人の多くが日本列島に渡って活躍した。
 国内では官等制を拡大して、王位も兄弟相続から父子相続に変え王妃族を秦(ちん)氏に固定し、博士高興(こふん)に国史「書記」を編纂させた。
 対外的拡大にともなう内部体制の変化に対応するため措置であった。第15代枕流王(ちむる、在位:384~385年)の時、東晋から仏教を受け入れたのもそうした対応の一環であった。
 しかしその後、高句麗の広開土王の波状攻撃に続いて、長寿王が南下政策を始めると百済は大きな危機を迎えた。第22代文周王(在位:475~477年)の時には慰礼城が陥落して大きな打撃を蒙った。百済は防衛に有利な熊津(うんじゅん、現在の公州ーこんじゅ)に首都を移し、新羅と同盟を結んで高句麗の圧力に立ち向かった。

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  公山城(こんさんそん、熊津)城内からみる錦江(きんこう)

 こうして高句麗の侵攻は阻止出来たものの、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も大きく縮小した。
 このように高句麗に圧迫された百済は同じような状況にあった新羅と同盟を結び高句麗の攻撃に対抗した。長寿王が攻撃してくると、第21代蓋鹵王(在位:455~477年)の時に急いで王子を新羅に送って援軍を要請した。
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 しかし新羅の兵20,000人が到着する前に百済は大敗し、蓋鹵王も戦死した。
 その後、高句麗が新羅の北方に進入した際には、百済の第24代東城王(在位:479~501年)は新羅を助け、母山城の戦いで高句麗を打ち破った(484年)
 百済と新羅は同盟関係を強化するために王室間で婚姻を結んだ。
 これにより百済は、高句麗の攻撃を阻んで国力を蓄えようとした。
 堤防の築造等の水利事業を国家的に管理し、朝鮮半島西南部の農地開発を進める事によって、領土の喪失により縮小した国家の基盤を補った。
 また、既存の王族と扶余族系統の少数貴族中心の政治運営を終わりにして、中央の政治に参加する貴族の範囲を拡大して政治の安定化を図った。
 そして、倭や南朝とも交流し対外的安定を図った、
 このような努力が奏して国力は充実していった。

 ※六佐平(ゆくじゃぴょん)
 1:内臣佐平(ねしんじゃぴん)-最上級者、王命の伝達や上訴の提供をする。
 2:内頭佐平(ねどうじゃぴん)-財政担当長
 3:内法佐平(ねぽうじゃぴん)-礼儀・儀礼の司長
 4:衛士佐平(うぃさじゃぴん)-近衛隊長
 5:朝廷佐平(ちょじょんじゃぴん)-司法担当長
 6:兵宮佐平(ぴょんぐぁんじゃぴん)-地方の軍事を司る宮庁長


         引用       海洋大国大百済
                   図説 韓国の歴史
                   概説 韓国の歴史
                   韓国放送通信大学校歴史教科書
                   愛知学院大学「朝鮮史」講義
   


       鈴木純夫











  
   
                                                                                                                                                                                                                      

Ⅶ:北海道和種馬ー百済②今上天皇のご発言

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 本来であれば、第25代・武寧王から百済滅亡までを掲載すべきであるが、平成13年(2001年)12月23日、今上天皇誕生日の「天皇陛下の会見発言(要旨)」が「百済と日本国」との関係に付いて触れられているので、その記事と続日本紀などの資料を紹介する。

 天皇陛下の韓国発言
 日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があっったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人がいます。
 こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の友好的態度によってもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自信としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。
 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えています。
 ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

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 明年(延暦9年:790年)正月十四日辛亥。中納言正三位の藤原朝臣小黒麻呂(ふぃじわらあそんおぐろまろ)は誄人(しのびごとひと)を率いて皇太后に誄(しのびごと)を奉り、天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと)という諡(おくりな)を奉った。
 正月十五日皇太后を大枝山陵(おおえのみささぎ:京都市西京区大枝沓掛町伊勢講山の円墳)に埋葬した。
 皇太后の姓は和氏(やまとし)、諱(いみな)は新笠(にいがさ)で、贈正一位の和乙継(やまとのおとつぐ)の娘である。母は贈正一位の大枝朝臣真妹(おおえだあそんまいも)である。后の祖先は百済の武寧王(在位:501~523年)の子の純陀太子(じゅんだたいし)から出ている。
 皇后は徳優れ、容姿上品でうるわしく、若い頃より評判が高かった。天宗高紹天皇(あまむねたかつぐてんのう:光仁天皇)がまだ即位していない時、娶り妻とされた。皇后は今上(桓武天皇)・早良親王(さわらしんのう)・能登内親王(のとないしんのう)を生んだ。宝亀(ほうき)年中(770~780年)に氏姓を「高野朝臣」と改めて今上天皇が即位すると、皇太夫人(こうたいぶにん)と尊称された。延暦9年遡っって皇太后の尊号を追称された。
 百済の遠祖の都慕王(つもおう:百済の始祖で扶余を開国したと伝える伝説上の人物)は、河伯(かわのかみ)の娘が太陽の精に感応して生まれた。皇太后はその末裔である。それで天高知日之子姫尊と諡を奉ったのである。

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 天皇陛下:48歳、皇后陛下:47歳、皇太子殿下:22歳、秋篠宮:17歳  騎馬打毬に興じられた




            引用                      朝日新聞
                                     天皇皇族歴史伝説大辞典
                                     続日本紀
                                     続日本紀現代語訳
                                     日本史小典
                                     霞会発行「騎馬打毬」(水野氏史研究会)   



          鈴木純夫       


Ⅶ:北海道和種馬ー百済③

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 態津(うんじん)に遷都してから、第25代武寧王(むにょわん在位:501~523年)時代になって一応の安定期を迎える。武寧王陵の出土品から往時の国勢と高い文化水準がうかがえる。金製の装身具・銅鏡・巻頭太刀・鎮墓獣など多種多様な豪華な遺物の発見は百済研究の上でも貴重な資料である。

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 「斯麻王」とは「武寧王」の事で、この誌石は「武寧王の亡くなった時」の事が書かれている
            寧東大将軍百済斯
            麻王年六十二歳癸
            卯年五月丙戌朔七
            日壬辰崩到乙巳年八月
            癸酉朔十二日甲申安厝
            登冠大墓立志如左


 武寧王から王位を継いだ第26代聖王(そんわん在位:523~554年)のとき首都は再び泗(さび)に移し、国号を南扶餘(みなみふよ)と変えた。

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 武寧王・聖王の代に百済は、中国の南朝(宋・南斉・梁)と交渉する際、黄海を南に横切る危険な航路を選ばざるを得なかった。しかし、これは百済が対外関係を広げる一つの活路であり、6世紀中葉には倭への文化輸出・技術移転を容易にさせた。

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 このような海上活動には百済の首都が位置していた漢江下流地域が海運に便利であるという点が大きく作用していた。このような海の貿易路を掌握した百済王室は、民衆が農業に力を出させるような政策を行い、兵器製造・軍事訓練にも力を注いだ。
 こうして百済は強力な貿易国家となった。
 あわせて、22部の中央官署を拡大整備し、首都の5部地方の5方制を整えて国家体制の強化を図った。
 これらを土台に高句麗に奪われた漢江上流の6郡を新羅と共に攻撃し、551年に奪還するに至った。

 しかし、その2年後、同盟軍の新羅が百済の領土である漢江下流を急襲して奪う事件が起きた。
 これに憤激した聖王は新羅を攻撃したが、扶余から慶洲に通じる最初の関門である管山城(くわんさん・現在の忠清北道沃川)の戦いで聖王が戦死し、3万の兵士が皆殺しになってしまった。
 百済の新羅に対する攻勢は以後も継続されたが、第31代義慈王(ぎじわん在位:641~660年)が即位してからはさらに激烈となり、新羅の大那城を始め40余城を奪取しただけでなく、高句麗と共に党項城(たんはんそん)を攻撃し、新羅の対唐交通路を遮断しようとした。
 しかし、新羅の粘り強い対唐外交は成果を上げ遂に660年、唐の蘇定方(そていほう)・新羅の金廋信(きむゆしん)に率いられた連合軍が攻撃するに至った。
 そのうえ、対外領土拡張が思うようにまかせなかった百済は内部体制も揺るぎ、支配層の内紛が顕在化していた。
 階伯(けはく)将軍が、黄山(はぁんさん)平野で善戦したが、すでに戦勢は傾き、とうとう泗城が陥落するに及んで百済は滅亡したのである。

 百済は、建国から僅か678年の歴史であったが、倭国との関係は非常に密であったことがうかがえる。

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 百済王朝滅亡の日、3、000人の官女が身を投じた白馬江(ぺんまがん)が悲しい歴史を秘めて穏やかに流れている



        引用             百済武寧王の世界
                        海洋大国大百済
                        図説 韓国の歴史
                        概説 韓国の歴史
                        韓国放送通信大学校歴史教科書
                        愛知学院大学「朝鮮史」講義



     鈴木純夫



                      


























Ⅶ:北海道和種馬ー新羅①

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 新羅は12の小国からなる辰韓を母体として発展し、韓国の歴史上初めての統一国家を樹立し、一千年近く続いた国である。韓国史上一千年近く続いた国はほかにはなく、しかも王朝を新興勢力の高麗に平和な形で移譲したために多くの文化や芸術が遺った。
 三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一つである辰韓は、紀元前100年頃から紀元後300年にかけて、今の慶尚道エリアに点在していた12の小国の総称である。小国を束ねていたのは、後の慶州を地盤にしていた斯盧国(さろこく)であった。辰韓の領域については、漢江(はんがん)下流を上限とする説もあるが、今の洛東江(らくとがん)の東側の慶尚道付近だとする説が有力である。
 辰韓は秦韓とも書き、「三国志」などによると衛士朝鮮の遺民や、秦の亡命者たちがそのエリアに移住して青銅器や鉄器文化を普及させながら、小さな集団・小国を形成していたようである。
 倭国に話を転じると、大和朝廷に渡り「秦造ーはたのみやつこ」の地位を与えられた秦氏は、中国の秦国からではなく秦韓(辰韓)から渡ったのである。

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 記紀に登場する秦氏が倭国に渡るのは秦国が滅んで数百年の後であり、そのころの秦国の遺民を名乗るとは考えられない。
 日本書記の推古天皇11年(602)にこのような記載がある。

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 11月己亥(つちのとい)の朔(さくー一日)に皇太子(厩戸皇子-うまやどのみこ))は大夫(まえつきみ)たちに
「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏像を得て礼拝しようとするものはないか」と言われた。すると秦造河勝(はたのみやつこ かわかつ)が進み出て「私が礼拝しましょう」と言い、さっそく仏像を頂き蜂岡寺を作った。この月、皇太子は天皇に請うて大盾と靭(ゆきー矢を納めて背負う武具の一つ)を作り、また旗に彩色をした。
「秦造河勝(生年・没年不明)は、皇太子から授かった半跏思惟象を祀るために京都の広隆寺を建てたが、河勝の祖が秦韓、つまり新羅からの渡来人だとすれば、日本の国宝第一号に指定されているその木彫仏が韓国の三国時代の半跏思惟象と似ていても不思議ではない」

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 新羅は朴(ぱく)・昔(そく)・金(きむ)の3姓の始祖説話からわかるように、諸集団が連合して作られたくにであった。

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 新羅の建国説話によると斯盧国に暮らしていた6つの村(楊山(きんさん)・高嚧(こほ)・大樹(てす)・珍支(ちんじ)・高那(こや))の頭目たちが天から降りて来た朴赫居世(ぱくひょこせ)を王として受け入れたときから新羅の歴史が始まる。

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 これは朴赫居世と、6つの村長が連合して建国した事実を物語っている。
 実際に古朝鮮が滅亡したあと、移住民が大集団でこの地域にやっきた。
 鉄製の農具を使用する術を知っていたため、彼らは土着勢力に相当な影響を与えた。したがって優秀な鉄器を持った移住民(赫居世勢力)が慶州の土着勢力(6集団)を支配しながら国家形成したと推測される。
 新羅の初期支配者は居西干(こそがん)・次次雄(ちゃちゃうん)と呼ばれた。
 居西干は君長を次次雄は巫(シャーマン)を意味する。
 このことから、初期新羅の政治的君長が祭祀長の性格を帯びていることがわかる。
 この段階の慶州平野一帯の諸集団は、政治的・軍事的な統率力お持たず、農業共同体的な性格が残っていた。これらの集団を結束させるのには、交易を通じた資源の再分配と祭祀儀礼が大きな役割を果たした。
 斯盧国では慶州一帯の土着集団の間に、東海岸地域から来た脱解(たれ)勢力が支配勢力として加わるようになったが、金閼智(きむあるち)の登場で再び金氏勢力が支配するようになった。この過程で斯盧国は周辺にある小国と連合したり、征服したりしながら発展した。この段階の新羅王たちは尼師今(いさぐむ)と呼ばれていた。尼師今は連盟に属する邑落集団のリーダー会議で選出された。
 朴・昔・金の3氏族が尼西今を交替で務めていた事実からこのことが分かる。尼西今時代に新羅は、朝鮮半島東南部に存在していた辰韓のしょ諸小国の中で主導権を握るようになった。
 新羅は、まず南東海岸にあった蔚山(うるさん)と東萊(とんね)地域の諸小国を征服」した。この地域は海路で中国・倭国に結びついている重要な地域であった。
 さらに、東海岸地域と洛東江流域の諸小国を征服して行きながら防衛に重要な地域の城を築き、伽耶や百済の侵略に備えた。
 そのようにして、2世紀中頃には洛東江東側・小白山脈南側・東海岸の江陵南方にあった諸小国の大部分を服属させた。それがもとになって新羅は、4世紀後半の麻立干(まりぷかん)時代に飛躍的に発展した。麻立干は「大君長」と言う意味である、国内的には金氏による王位の世襲が確立し、建国に主導的な役割を果たした六部集団に対する王室の統制が強化された。
 新羅の王位は、朴・昔・金の3つの姓氏が輪番で務めていた。
 これは初期の新羅が諸勢力の連合に起源があるためである。
 第13代国王味鄒(みちゅ)は閼智の子孫であり、金氏としては初めて王位についた第17代国王奈勿(なむる)以後は金氏が連続して王位に就いた。
 一方、鉄製農機具・牛耕など先進的な農耕技術の普及・水利施設の拡充などによって生産力が増大した。また「骨品制ーこるぷむ」と言う独特の身分制度を整備し支配層の権威を保障した。

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 骨品制度
  「新羅の血統主義的な身分制度で、王族の聖骨(そんごる)・真骨(ちんごる)と、一般貴族の六頭品・五頭品などから構成された。上級官職はほぼ聖骨・真骨から選ばれ、六頭品以下は官職などを制限された。
 当初は聖骨から国王を選び、聖骨は父母がともに王族である朴・昔・金の三姓に限られた最上階級であった。父系が聖骨であっても母系がそれから外れた階級を真骨といい、王位継承の資格は与えられなかった。(ちなみに新羅の王は朴から七王・昔から八王・金から十三王である)
 小国の連盟王国であった新羅は王侯貴族の力が強く、国王の力がその分だけ弱かった。その弊害を越えるため、国王を中心とする中央集権的な政治運営を布く過程でこの制度が生まれた。
 第23代法興王(ぽっぷん)7年(520)に十七の位階に整備され聖骨出身者に限られていた王位継承の資格が真骨にひろがったのは、第29代武烈王(むよる)の跡を継いだ真骨出身の第30代文武王(むんむ)からである。聖骨出身で王位継承の資格が整っていた金春秋(きむっちょんちゅ)による王位の継承が遅れたのは、王族ではない金庾信(きむゆしん)の妹と結婚したためであった。文武王以降の王はみな真骨出身であるが、王位継承し格の枠が広がり、末葉には王位継承をめぐる争いが激しくなり国内秩序の乱れを生む要因にもなった」

 国家の重大事は、真骨貴族出身の大臣にあたる大等たちの会議である「和白-はぁべく」会議によって決定した。
 「和白」とは
  辰韓には、六つの村(楊山・高嚧・大樹・珍支・加里・高那)がありそれぞれの村の岳・山に天降った巫人がそれぞれの村長になっていた。紀元前69年3月1日村長たちが子弟を連れて闕山(たおるちろん)の堤の上に集まって相談し合った。この集いを「和白」といい、今日的に言えば合議制に相応するが、新羅独自の制度で長い間続けられた。

 新羅は其時、中国とも初めて交易を行い、自身の存在を誇示した。
 一方、南部地方に倭国が侵入すると、高句麗の広開土王に救援軍を要請して倭国を打ち破り、それを契機として高句麗の先進文化を受け入れた。
 対外的に新羅は4世紀末~5世紀初め、高句麗の南進によって一時高句麗の勢力下に入ったが、直ぐに百済や伽耶と同盟を結び、高句麗勢力を排除した。
 さらに小白山脈以南の辰韓地域」に対する支配を強化し、征服活動を推進した。
 そして中国の「北朝」に使臣を派遣するなど、国際舞台に進出していった。


 ※日本書紀の「皇太子」については、「日本思想史学会」で「聖徳太子」は「特定された個人を指すものでは無い」との見解を示される学者がみえると言う事で「厩戸皇子」とした。



     引用                韓国の歴史を知るための66章
                        図説 韓国の歴史
                        国史大系 日本書紀
                        現代語訳 日本書紀
                        愛知学院大学「朝鮮史」講義
                        愛知学院大学「日本思想史」講義


   鈴木純夫

Ⅶ:北海道和種馬ー新羅②

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イメージ 1金製の冠







































 新羅は三国の中で最も発展が遅れていたが、6世紀に入ると次第に基盤を固めて行った。
 6世紀初めの第22代智証王(金氏系・ちじゅんわん・500~514年)の時代には、農業生産が増大した(農機具を改良し牛耕(ぎゅうこう・502年)が用いられるようになった)。それに伴い殉葬も禁止され、農業労働力が安定的に確保できるようになった。首都の慶州では市場も開かれるようになった。
 国家が発展したことで、国名も「徳業を日に新しくして四方を網羅する」と言う意味の「新羅」と定められ、王権も強化され、王の称号も麻立干(まりぷかん)から中国式を取り入れて「王」と変えられた。

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 さらに新羅は優勢な軍事力と武器で、周辺の諸地域を征服した。このようにして国の容貌を新たにした新羅では、第23代法興王(金氏系・ぽぷんわん・514~540年)の時代に国家体制がさらに整備され、律令を頒布し、貴族の反対を押し切って仏教を公認し、思想の統一を図った。また、領土拡張において中心的な役割を担うようになった、兵部と真骨(ちんごる)貴族会議の代表である上大等(さんてどぅん)を設置し官位の高低によって服の色を変える公服制を実施するなど、官僚体制の枠も固めた。最終的に新羅は中国の年号を使用するようになったが、これは新羅が対内的に王権が確立し、対外的に中国と対等な国家であるという自覚を持っつていたことを示す。新羅が、第24代真興王(金氏系・ちぬんわん・540~576年)の時代に領土拡大を行えたのは、このような様々な努力の結果である。

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 真興王は活発な征服活動を行い、伽耶連合の全地域を征服して洛東江流域を掌握した。さらに百済と共同で高句麗を攻略して漢江上流の10郡を奪い、百済から漢江下流地域を奪って漢江流域を独占した。その後、北に攻撃方向を変えて江原道と咸鏡道の海岸地方まで進出し、征服した地域には巡狩碑を建立した。
 新羅の漢江流域進出は重要な意味をもった。まず、新羅はこの地域の豊富な生産物と人民を抑えることによって国力を大きくし、三国間の競争で優位に立った。さらに、黄海を経て中国と直接交渉することが出来る海路を利用して、東アジア国際社会で確固たる地位を築いた。

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イメージ 6ガラス瓶






































イメージ 7ガラス玉首飾り







































  新羅は漢江流域を占領してから管山城の戦いで百済軍を破り、伽耶に対しても最後の攻撃を行った。
 新羅は阿羅伽耶と非火伽耶を次々と征服し、562年には高霊(こりょん)の大伽耶も征服して洛東江一帯を完全に征服した。肥沃な穀倉地帯であり海上貿易の中心地でもあった伽耶地域を手に入れたことで、新羅の国力はさらに大きくなり、咸興平野まで進出した。
 真興王は領土拡大に自信を得て、自分を帝王または、朕と呼び、独自に「開国」と言う年号を使用した。
 15~16歳の貴族の子弟の中から優れた人材を選んで「※花郎ーふぁらん」と呼び、その下に多くの青少年を集めて山川を巡りながら心身を鍛えさせた。彼ら花郎徒は三国間の戦争と新羅による統一の過程で重要な役割を果たした。


 ※花郎
 花郎とは、新羅の貴族出身の青少年で組織された集団の頭の呼称で、15~16歳の青少年が女装をして麗しく着飾っていた。前身である原花(うぉんふぁ)という集団では、南毛(なむも)と俊貞(ちょんぴょん)と言う二人の麗しい少女を頭としたが、嫉妬が高じて俊貞が南毛を殺すと言う事件が起こり、頭を男性に変えて女装させる。その団員たちを花郎徒といい、これは新羅にしかない制度で国造りに大いに貢献した。その集団を支えた精神を花郎道精神といい、それは統一新羅を樹立する礎になった。
 花郎集団は新羅の人材教育の組織で、集団の構成員数はときによって異なるが200~1000人ほどであった。花郎徒は武術や身体・精神を鍛えながら軍事に備えるが、平時は景勝地を逍遥し吟行しながら歌舞を楽しみ、戦のような国事が起こると国のために殉ずる精神を鍛錬していた。
 花郎は兜卒天(とdそつてん)から下生した弥勒菩薩にたとえられるほど称揚され、将軍職に就く多くの人材を輩出した。「世俗五戒」と呼ばれる五ヶ条の精神修練は、儒教・仏教・道教の三教にもとづき、忠君愛国の精神を修養した。

イメージ 8花郎の理想の青年像









































    引用                     図説 韓国の歴史
                            韓国の歴史を知るための66章
                            愛知学院大学「朝鮮史」講義






        鈴木純夫
























Ⅶ:北海道和種馬ー番外編

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イメージ 2賀茂神社創建1,275年式年大祭 流鏑馬神事

滋賀県近江八幡市加茂町1691番



賀茂神社由緒
元正天皇(在位715~724年)の養老元年(717年)下道朝臣吉備らが近江国蒲生郡船木荘中小路村に下って社地を選び奏聞。
聖武天皇(在位724~749年)天平8年(736年)社殿を創建、賀茂大神を鎮祀した。皇室の尊敬が厚く、武門・武将の崇敬も深かった。
なお賀茂荘と称し荘園内の氏神として一般の信仰を集めた。



                                                                   
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賀茂神社正面




















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       拝殿
 

 「流鏑馬神事」と「馬上武芸」
 
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  走路を囃太鼓を先頭に、演武者・使役全員での行列行進。

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  走路の安全を祓う「馬上舞」  羽衣が流れ見事なバランス力が分かる。

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 正装の神事射手は「扇」に「神」への尊厳を託し、大きな所作の後、天高く投げ放ち出走する。

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 1の神事射手、見事に一の的的中し紙吹雪が舞う。

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 2の神事射手、二の的的中し紙吹雪が舞う。

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 3の神事射手、二の的的中し同じく紙吹雪が舞う。

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 平騎射、「5寸扇で、直径1寸5分の赤い図星」の真ん中を的中させた超難度な技術。

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 駆け足による馬上舞 安定した見事なバランス力である。

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  3騎による「じぐざく走法」の流し旗。狭い走路を体重の移動でバランス良く乗っている。

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   弓手追物射(ゆんで おものい) 弓手とは「左方」を言い、前方の敵を射る。「的中」

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 押捩(おしもじり) 後方よりくる敵に、体を左後方に大きく捩り矢を放つ。「的中」

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 追物射・押捩の同時打ち  高句麗の5世紀古墳壁画に見られる。「両者とも的中」

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 弓手下(ゆんで した) 獲物又は草村に潜む敵を射る。高度な技術が求められる。「的中」

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 馬手追物射(めて おものい) 馬手とは「右方」を言い、弓を馬の首を大きく跨ぎ射るもので、高度な技量が求められる。「的中」

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 馬上での薙刀(約6尺7寸)の演武 薙刀の重さがあるため、力とバランスが求められ難度が高い。

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 長巻(約5尺4寸)の演武 刀の半分程が柄で、供の物を引き連れ、抜くやいなや「押し通」の声と共に大きく振りかざす。

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 3騎が「満月の形」で構え、1の射手・2の射手・3の射手が連射し、「パン・パン・パン」と見事に的中させ、復路では「捧げ弓の形」で馬場元に戻る。


 以上が、観客200名程の中で行われた大祭の、「流鏑馬神事」と「馬上武芸」である。


 ※神事射手とは、直垂(ひたたれ)・水干(すいかん)を着て、頭に後三年烏帽子の上に綾藺笠、両手に白の手袋、左腕に射籠手、腰に夏鹿の毛皮で出来た行縢(むかばき)を履き、左腰に太刀と短刀・弦巻、右腰に箙(えびらー矢の入れ物)を着用している。
(この出で立ちは、一説に源頼朝が富士の裾野で狩りをしたときに使用していたものだと言われている)
※直垂・水干は鎌倉時代の装束で、現在の着物の原型とも言われている。


      引用               全国神社名鑑
 

      協力               賀茂神社1,275年実行委員会
                        紅葉台木曽馬牧場
                        甲州和式馬術探求会

      写真提供            林  佳夫 氏




                                                   鈴木純夫




































                                                                                                         
                                                              
                                                                  

北海道和種馬ー新羅③

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  7世紀中盤に入ると三国は、急速な展開をみせた。642年、百済は新羅を攻撃し、大那城(でやそんー慶尚南道侠川所在)をはじめとする新羅西部地域の要塞地を蹂躙した。この難局を打開するため、新羅の金春秋(きむちんじゅ)は高句麗の平壌城(ぴょんやんそん)を訪問し、その年にクーデターで執権した淵蓋蘇文(よんげむそん)と会談した。両国間の戦争をやめ、関係を改善しようとしたのである。しかし、漢江流域の返還を求める淵蓋蘇文の要求と判断の相違のため会談が決裂すると、逆に新羅に対する高句麗の攻勢が強化された。
 645年※①には唐の大軍が高句麗に侵攻してきたが、安市城(あんしそん)の戦いに敗れ退却した。金春秋は最後の協調対象であった唐に赴き、新羅と唐の同盟を積極的に推進した。唐は高句麗侵攻が失敗に帰した後、高句麗の南部国境に第二戦線を構築することを望んでいたため、喜んで新羅と手を組んだ。ここに新羅と唐との強力な軍事同盟が成立し、6世紀末以後、高句麗をめぐり展開されていた三国間の対立の波と、中国の統一王朝と高句麗との間の戦争の波が直接結びつくようになったのである。その波は東北アジアの情勢を根底から揺るがすものであった。

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   第29代武烈王(在位654~661年)三国統一のため各将軍らと百済攻略作戦を立てている


 新羅と唐の、このような動きに直面し、高句麗と百済は協力を模索した。さらに高句麗はモンゴル高原の遊牧民国家薛延陀(せつえんだ)と中央アジアのサマルカンド地域にあった康国(こうこく)などに使節を送って同盟を模索した。当時、康国を訪問した高句麗使節の様子が描かれた壁画(アラシャブ壁画)が近年発見され、使節の存在が裏付けられた。こうした試みは、唐を多方面から牽制するためのものであった。一方、百済は大和(日本)との関係を強化した。
 このように7世紀中頃、東北アジアの情勢は朝鮮半島をめぐり、東西の同盟軸と南北の連結軸が交差し対立する形勢を示した。しかし、前者が後者よりも結束力が強かった。

  続く。


  引用               愛知学院大学「朝鮮史」講義
                    図説 韓国の歴史
                    日本軍事史

   
    鈴木純夫
 


















































 

Ⅶ:北海道和種馬ー新羅③ー2

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 続き

 660年ついに新羅が唐と連合して百済を攻撃した。百済は既に防衛力を喪失した状態であったため、たやすく崩壊してしまった。百済が滅亡すると各地で百済の遺民が復興運動を起こした。福信(ぼくしん)・道琛(とちむ)・黒歯常之(ふくちさんじ)・王子豊(わんしぶん)などが復興軍を率いて活躍したが。663年※②、新羅と唐の連合軍が百済復興軍と大和(日本)軍を錦江河口で撃破したことを契機に、百済の復興運動は次第に消滅した。

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 百済の滅亡後、比較的自由に動けるようになった新羅軍の支援を受け、唐軍は高句麗を度々攻撃した。高句麗の戦略的位置は非常に弱まった。そのような中で、長い戦乱により疲弊した高句麗で淵蓋蘇文(よんげむそん)が死亡すると、彼の息子たちの間に内紛が起こった。この機に乗じ、新羅と唐の連合軍が大攻勢をかけたため、高句麗は668年についに滅亡した。唐は平壌に安東都護府(あんとんとごふ)を設置して高句麗地域を唐の領域にした。高句麗の滅亡後、高句麗各地でも剣牟岑(こむもじゃん)・安勝(あんすん)・高延武(こよんむ)などが復興軍を率いて活躍した。
 新羅の三国統一により朝鮮半島には平和が訪れ、人々は戦争の苦しみから解放された。しかし、新羅による三国統一の過程は、侵略者と結託し同族国家を滅亡させ、かつての高句麗の広大な領域を放棄したという悲劇的な側面を有していた。一方では、三国の民の間に存在した異質性をなくし同類意識をもたせ、一つの「民族」を形成する重要な契機ともなった。三国統一を契機に、初めて一つの民族共同体が形成され、民族国家の基盤を整えたのである。
 しかし、統一戦争が外国勢力である唐の勢力を朝鮮半島に引き入れて遂行されたという点に大きな限界があった。また、三国統一が不完全であったため、朝鮮半島北部と中国東北部地域を失ってしまうという限界もあった。よって、新羅による三国統一の意義を否定し、高麗(こまー901~1,391年)による統一が民族最初の統一であるという見解も提起されている。しかし、一部に限界があったとしても三国統一の歴史的意義を無視することは出来ない。領土をを失った不完全な統一は渤海(ぼっかいー698~926年)の建国と高麗の再統一により補完されたのである。また、外国勢力を引き入れて同族を討ったという批判もあるが、当時の三国と唐は各々が別個の国家として競争関係にあったという点からみれば、新羅王室が自国の困難を克服しようとした努力の結果とみることもできるであろう。

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 ※①大化元年、中大兄皇子(なかの おおえの みこー天智天皇ー在位:668~671年)は蘇我倉山田石川麻呂(?~649年)や中臣鎌足(なかとみの かまたりー藤原鎌足ー614~668年)の協力を得て、王族中心の中央集権を目指した、蘇我蝦夷(そが えみしー?~645年)・入鹿(いるかー?645年)を滅ぼした(乙巳の変ーいっしのへん)

 ※②663年8月、朝鮮半島南西部錦江河口の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅対大和と百済の遺臣の決戦が、2日間に渡って行われ、唐と新羅連合軍に突撃攻撃を試みたがいずれも失敗。400余隻の船(新羅の記録に大和の水軍は、1、000艘隻、唐の水軍は170艘隻とあると言われている)は炎上し、海水は大和軍の死傷者で赤く染まったと伝えられるほどの惨敗であった。
 この惨敗の理由として、戦況判断の誤りという作戦上のミスも指摘されるが、根本的には豪族連合軍という大和軍の編成形態に問題があった。
 相互の意思疎通を欠いたまま、豪族軍が個別に突撃を繰り返し、各個が撃破されて行ったのが戦闘の真相であろう(大和王権は地方に強力に支配していたのではなく、地方の豪族の政治勢力と緩やかな政治的連携を結ぶに留まっていた)
 謂わば、豪族連合軍の持つ弱点・欠陥が大きく露呈されることになった事である。
 それまでの豪族連合に代わる、新たな軍事編成方法が模索されることになる。
 国制上の重大な変更として、豪族連合軍という編成形態と政治体制を、政治体制そのものを変える新たな政治体制、それが「律令」であり「律令国家」であった


    引用                  愛知学院大学「朝鮮史」講義
                         日本軍事史
                         図説 韓国の歴史


     鈴木純夫
 

Ⅶ:北海道和種馬ー伽耶①はじめめに

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イメージ 1図ーA

高句麗・百済
新羅・伽耶



































イメージ 2図ーB
高句麗・百済
新羅・任那





































 今更ではあるが、本ブログは出来得る限り、現地直接取材・体感取材を軸に掲載することに努めているが、現在掲載中の朝鮮半島に行く試みはしたのだが、下記の理由により行くこと無しに掲載をしてしまっていることを読者の皆様にお詫びしたい。
・2年ほど前に筆者の甥が、韓国N電工SOLUTION CENTER/center長で、5年ソウルに駐在しており、ハングルでの会話・読み書きが出来るため、通訳として韓国南西部(旧百済・伽耶地域)を4日間案内して欲しい旨を伝えたところ「その他の地域なら良いが、僕のハングル能力では行かない方が良い」と丁寧な断りの説明があった。

はじめに
 筆者(昭和27年ー1952年生まれ)が受けた朝鮮半島の4国は、図ーBの「倭王権による任那日本府を通した植民地収奪・朝鮮半島侵略の結果」の教育であった。
 しかし、「任那」が「伽耶」に変わった図ーAは、1980年代以降に韓国の研究者だけでなく、日本の一部の文献史学者によって、「任那日本府」が6世紀前半、一時的に咸安(はまん)の阿羅伽耶に派遣された倭の外交使節が滞在した「倭臣館」のようなものであった事が明らかにされたり、考古学の面からも「鉄製甲冑や馬具・金銅製の装身具の出土品から、日本列島で独自に発展したと考えられてきた文物が、朝鮮半島に起源を持った事が確認されたり、鉄製甲冑が出土したことを契機として、伽耶地域に日本列島文物が移入された可能性が提起された。

イメージ 33~4世紀日本列島から出土した、金官加耶産の文物




































イメージ 44世紀金官加耶地域から出土した、日本列島産文物




































イメージ 55世紀後半日本列島から出土した、大加耶産文物




































イメージ 65世紀後半大加耶地域から出土した、日本列島産文物
 



































 それは、伽耶と倭の文物と人の移動が、一方通行ではなく相互的であったことを示していると思われることから、図ーAが現在の教育の現状であることと理解する。
 (筆者が、開放講座聴講生として通っていた大学の書籍店で購入した「現在の高等学校で使用している日本史・世界史の教科書」は、図ーAである)
 
 一方、未だに古代日本人の居留地、交易の中心であり朝鮮半島中南部を軍事的に押さえる要衝の地と考え「任那日本府」説をとなえる研究者は、「現在の高等学校で使用している日本史・世界史の教科書」を否定し、「日本書紀」・「古事記」・「魏志倭人伝」・「三国史記」にもとずき推論されたり、筆者が「高句麗」で掲載した「日本陸軍軍部」が意図的に加筆・修正された、「広開土王碑」に「任那」の刻字があることに頼っておられるように思われる。
 但し、「任那」が一国としての体裁が最後まで整わなかったと述べておられる点については、「伽耶」にも同じことが言える。

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 本年は「伽耶」と、「任那」説があることに触れただけで筆をおき、建国から滅亡までは来年掲載させていただく。


 引用                   図説 韓国の歴史
                       加耶と倭
                       韓国歴史地図
                       海を渡った日本文化
                       中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史
                       知っていますか 任那日本府
                       詳説 日本史B
                       詳説 世界史B
                       日本書紀



イメージ 9平成28年11月7日発行

筆者が「甲州和式馬術探求会」の解説を入れ、著作者に「和式乗馬術」を説明するため、乗馬方法を記した、「騎術藻塩草ーのりわざ もしおぐさー全854首」の中から、20首を選び提供した。
























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 平成28年7月30日(土)に、山梨県馬術競技場で行われた、「第38回八ヶ岳ホースショーin小淵沢」で演武を披露する、「甲州和式馬術探求会」の会員   P26~29に記載あり。


  引用         サムライの筋肉が疼く 「スポーツ流鏑馬入門」

  協力         紅葉台木曾馬牧場
              甲州和式馬術探求会

  写真提供      林 佳夫氏



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            現代美術家協会中部支部長・田中敏夫氏画

 来る年が、愛読頂ける皆様におかれまして、健やかで、幸多からんことを祈念いたします。

   平成28年12月31日
                             鈴木純夫



Ⅶ:北海道和種馬ー伽耶②

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 伽耶は、洛東江(なっとんがん)西岸の6つの小国から始まった。
 建国説話には、次のようにある。
 伽耶9村の頭目が集団を率いて亀旨峰(きじぼん)に上がり「亀旨歌」を歌いながら踊りを踊って遊んだことがあった。そのとき天から黄金の卵を得て、その卵から男の子が6人生まれたという。その中で最初に生まれた子が首露(すろ:42~199年)であり、それぞれが王になった。

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 6伽耶の中でも最も発展した国が金海(きめ)にあった金官伽耶であった。金官伽耶は洛東江流域の肥沃な沖積平野を支配し、農業の発展に最適であった。
 さらに楽浪郡と倭との海上交易拠点として急速に発展していた。この時代、この地域で生産される豊富な「鉄」を用いて、中国・倭との交易の中心地になった。大量に生産される「鉄」で優れた鉄製の道具が多く作られた。
 このような鉄器を楽浪郡・倭に輸出し、両地域の交易を中継することで経済力を大きくした。

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 伽耶は高い水準の文化を持ち、その文化は後に新羅に大きな刺激を与えた。また一部勢力は倭国へ進出し、倭国文化の発展と国家成立に寄与した。
 しかし、伽耶6国に分かれており、連盟は構成したものの、強力な統一国家が出来なかった。
 それは、小国それぞれが交易を通じて経済力を大きくし独立していたためである。
 これら伽耶国は早い時期から、領土問題を巡って、新羅と洛東江下流地域で何回も戦ったが常に敗れていた。こうして洛東江東岸への進出に失敗すると、伽耶は西方の百済と緊密な関係を結んで新羅をけん制した。
 4~5世紀初めにかけて新羅が強大化すると、伽耶は大きな打撃を受けた。
 しかし、高句麗が平壌に遷都(427年)すると、新羅と百済は高句麗の南下に対応しなければならなくなり、その間隙を突いた伽耶は勢力を回復することが出来た。
 このとき6伽耶は高霊(こりよん)を支配していた大伽耶を中心に統合しようとした。
 大伽耶は、伽耶の代表勢力に成長し、新羅・百済・高句麗の3国と競争しながら中国の南朝に使臣を送った。
 新羅23代法興王(ぽぷんわん:532年)、金海の金海伽耶(きめかや:10代仇衡王)が新羅に服属した。
 危機意識を感じた伽耶の諸国は、大伽耶を中心に新羅と立ち向かい、百済と同盟を結んだ。
 そのため、554年に新羅と百済の間で管山城の戦いが起きた時には、伽耶は百済を支援した。
 しかし、この戦いで新羅が勝利したことで、伽耶は不利な立場になった。
 伽耶は新羅と百済の圧迫と攻撃を受け徐々に勢力が弱体化した。
 結局、伽耶は新羅と百済の狭間にあって古代国家に発展できなかった。そして新羅の攻撃を受けて大伽耶が滅亡すると、歴史上から姿を消した。

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 11代垂仁天皇~29代欽明天皇の時代に、伽耶との最新の文物・知識が倭国に伝えられ、漢氏(あやし:百済・伽耶系)や秦氏(はたし:新羅・伽耶系)の渡来人によって倭国文化に大きな影響を与えた。

 このように、伽耶は百済や新羅と対抗し得る性欲には成長できず、国家の競争の中で新羅に滅ぼされた。
 これは、伽耶の文化水準が低かったのではなく、政治的統合の中心に成り得る国が存在しなかったのである。

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          伽耶の古墳図


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          金海地方から出土(5世紀頃)

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          金の冠

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        金の耳飾り

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            指輪と勾玉


 引用                     図説 韓国の歴史
                         加耶と倭
                         韓国歴史地図
                         海を渡った日本文化
                         日本史小典



         鈴木純夫

Ⅶ;北海道和種馬ーまとめ

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 愛馬「理宝号」、8歳・月毛・体高130㎝・妊娠278日(馬の妊娠期間は、約340日)・2月22日撮影
 女性の身長は、153㎝。
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 ウマの妊娠経過にともなう胎子の成長と性腺肥大

 2月15日~17日で、鹿児島県指定文化財のトカラ馬の取材を行い、在来馬8種全ての取材が終わった。

 そのため今回掲載にて、著者が考える「北海道和種馬」の「種」としてのあるべき姿(利活用)を述べ、終了とする。

 尚、「日本海沿岸ルート説」の調査を進めて行くにつれ、「太平洋沿岸ルート説」の調査もしなければいけなくなった事が分かった。

 当ブログは、「日本在来馬」の歴史研究をテーマとしているため「歴史学」を勉強することは当然のことであるが、必然的に「考古学」の分野と合わせ、環境・地質・生体・民俗学など色々の知識を得ずには進めて行くことは出来ない。
 著者の目指すところは、「日本在来馬」のルーツであり、現在言われている「学説」に加え、上記の「2つのルート説」を解き明かし、東北地方が「名馬の産地」となった事を理解することにある。
 また、「馬」が「農耕・荷駄」だけでなく、「軍馬」として使われた点に留意して、「馬具・武具」に加え「合戦」についても推論をしていく。
 読者の方に上記の件につき、満足していただけるように完結させる時が、何時になるか予想が出来ない事を前もって述べて置きたい。


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  著者が聞き取り調査した平成27年度日本在来馬数

 図のように、総数・1819頭のうち北海道和種馬が、1,205頭と全体の66%を占める状態にある。
 因みに、日本在来馬の個体数が最も多かったのは、平成6年の総数・3,466頭で、そのうち北海道和種馬が、2,928頭(約84%)であり、最も個体数が少なかったのが、宮古馬・23頭であった。
 ようするに、日本在来馬の総数の増減は、北海道和種馬の増減にあることがわかる。

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 北海道和種馬の飼養頭数と生産頭数の推移

 まとめ北海道和種馬の利活用方法は究極的に考えると、以下の5点である

 1:北海道和種馬が持つ独特の伝統技法である「ダンズケ」である

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 「ダンズケ」がもととなる、完全な側対歩が出来る馬の作出が必要。

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 2:野外活動の活発化に伴うトレッキングイメージ 8

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 3:体高から考え、セラピー馬として使用する。
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 サラブレットより、北海道和種馬の方が、介助者の作業が容易であることが分かる。


 4:現在各地で盛んに行われるようになった、流鏑馬に使用する。
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 装束は各団体で異なっているが、馬具(和鞍・舌長鐙)、乗馬方法については、あくまでも和式乗馬術で行って欲しい(鐙に体重を落とし、鞍に座らずに透かして乗る)

 
 5:食肉
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 馬肉消費量の推移

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 馬肉輸入量の変化

 馬肉は、他の畜肉と比べ、脂肪が少なくタンパク質含量が比較的高い。
 輸入肉よりも、日本在来馬の肉の方が旨いとされ、中でも北海道和種馬は赤身と脂身の具合が良い言われている。
 現在焼き肉屋で出される、「ユッケ」は全て馬肉である。
 また、日本の食文化で伝統的な内臓料理として、「おたぐりーウマのもつ煮」や「なんこ鍋ーウマの腸の味噌煮込み」などがある。



       引用               ウマの起源と家畜化
                         農用馬・在来馬の生産システム
                         ウマの繁殖
                         北海道和種馬の起源と利用・保存
                         北海道和種馬の地道に活用の道を模索
                         日本馬事協会・平成24年度事業報告「在来馬関係」


        鈴木純夫        

Ⅶ:北海道和種馬ー百済③

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 態津(うんじん)に遷都してから、第25代武寧王(むにょわん在位:501~523年)時代になって一応の安定期を迎える。武寧王陵の出土品から往時の国勢と高い文化水準がうかがえる。金製の装身具・銅鏡・巻頭太刀・鎮墓獣など多種多様な豪華な遺物の発見は百済研究の上でも貴重な資料である。

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 「斯麻王」とは「武寧王」の事で、この誌石は「武寧王の亡くなった時」の事が書かれている
            寧東大将軍百済斯
            麻王年六十二歳癸
            卯年五月丙戌朔七
            日壬辰崩到乙巳年八月
            癸酉朔十二日甲申安厝
            登冠大墓立志如左


 武寧王から王位を継いだ第26代聖王(そんわん在位:523~554年)のとき首都は再び泗(さび)に移し、国号を南扶餘(みなみふよ)と変えた。

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 武寧王・聖王の代に百済は、中国の南朝(宋・南斉・梁)と交渉する際、黄海を南に横切る危険な航路を選ばざるを得なかった。しかし、これは百済が対外関係を広げる一つの活路であり、6世紀中葉には倭への文化輸出・技術移転を容易にさせた。

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 このような海上活動には百済の首都が位置していた漢江下流地域が海運に便利であるという点が大きく作用していた。このような海の貿易路を掌握した百済王室は、民衆が農業に力を出させるような政策を行い、兵器製造・軍事訓練にも力を注いだ。
 こうして百済は強力な貿易国家となった。
 あわせて、22部の中央官署を拡大整備し、首都の5部地方の5方制を整えて国家体制の強化を図った。
 これらを土台に高句麗に奪われた漢江上流の6郡を新羅と共に攻撃し、551年に奪還するに至った。

 しかし、その2年後、同盟軍の新羅が百済の領土である漢江下流を急襲して奪う事件が起きた。
 これに憤激した聖王は新羅を攻撃したが、扶余から慶洲に通じる最初の関門である管山城(くわんさん・現在の忠清北道沃川)の戦いで聖王が戦死し、3万の兵士が皆殺しになってしまった。
 百済の新羅に対する攻勢は以後も継続されたが、第31代義慈王(ぎじわん在位:641~660年)が即位してからはさらに激烈となり、新羅の大那城を始め40余城を奪取しただけでなく、高句麗と共に党項城(たんはんそん)を攻撃し、新羅の対唐交通路を遮断しようとした。
 しかし、新羅の粘り強い対唐外交は成果を上げ遂に660年、唐の蘇定方(そていほう)・新羅の金廋信(きむゆしん)に率いられた連合軍が攻撃するに至った。
 そのうえ、対外領土拡張が思うようにまかせなかった百済は内部体制も揺るぎ、支配層の内紛が顕在化していた。
 階伯(けはく)将軍が、黄山(はぁんさん)平野で善戦したが、すでに戦勢は傾き、とうとう泗城が陥落するに及んで百済は滅亡したのである。

 百済は、建国から僅か678年の歴史であったが、倭国との関係は非常に密であったことがうかがえる。

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 百済王朝滅亡の日、3、000人の官女が身を投じた白馬江(ぺんまがん)が悲しい歴史を秘めて穏やかに流れている



        引用             百済武寧王の世界
                        海洋大国大百済
                        図説 韓国の歴史
                        概説 韓国の歴史
                        韓国放送通信大学校歴史教科書
                        愛知学院大学「朝鮮史」講義



     鈴木純夫



                      


























Ⅶ:北海道和種馬ー新羅①

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 新羅は12の小国からなる辰韓を母体として発展し、韓国の歴史上初めての統一国家を樹立し、一千年近く続いた国である。韓国史上一千年近く続いた国はほかにはなく、しかも王朝を新興勢力の高麗に平和な形で移譲したために多くの文化や芸術が遺った。
 三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一つである辰韓は、紀元前100年頃から紀元後300年にかけて、今の慶尚道エリアに点在していた12の小国の総称である。小国を束ねていたのは、後の慶州を地盤にしていた斯盧国(さろこく)であった。辰韓の領域については、漢江(はんがん)下流を上限とする説もあるが、今の洛東江(らくとがん)の東側の慶尚道付近だとする説が有力である。
 辰韓は秦韓とも書き、「三国志」などによると衛士朝鮮の遺民や、秦の亡命者たちがそのエリアに移住して青銅器や鉄器文化を普及させながら、小さな集団・小国を形成していたようである。
 倭国に話を転じると、大和朝廷に渡り「秦造ーはたのみやつこ」の地位を与えられた秦氏は、中国の秦国からではなく秦韓(辰韓)から渡ったのである。

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 記紀に登場する秦氏が倭国に渡るのは秦国が滅んで数百年の後であり、そのころの秦国の遺民を名乗るとは考えられない。
 日本書記の推古天皇11年(602)にこのような記載がある。

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 11月己亥(つちのとい)の朔(さくー一日)に皇太子(厩戸皇子-うまやどのみこ))は大夫(まえつきみ)たちに
「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏像を得て礼拝しようとするものはないか」と言われた。すると秦造河勝(はたのみやつこ かわかつ)が進み出て「私が礼拝しましょう」と言い、さっそく仏像を頂き蜂岡寺を作った。この月、皇太子は天皇に請うて大盾と靭(ゆきー矢を納めて背負う武具の一つ)を作り、また旗に彩色をした。
「秦造河勝(生年・没年不明)は、皇太子から授かった半跏思惟象を祀るために京都の広隆寺を建てたが、河勝の祖が秦韓、つまり新羅からの渡来人だとすれば、日本の国宝第一号に指定されているその木彫仏が韓国の三国時代の半跏思惟象と似ていても不思議ではない」

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 新羅は朴(ぱく)・昔(そく)・金(きむ)の3姓の始祖説話からわかるように、諸集団が連合して作られたくにであった。

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 新羅の建国説話によると斯盧国に暮らしていた6つの村(楊山(きんさん)・高嚧(こほ)・大樹(てす)・珍支(ちんじ)・高那(こや))の頭目たちが天から降りて来た朴赫居世(ぱくひょこせ)を王として受け入れたときから新羅の歴史が始まる。

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 これは朴赫居世と、6つの村長が連合して建国した事実を物語っている。
 実際に古朝鮮が滅亡したあと、移住民が大集団でこの地域にやっきた。
 鉄製の農具を使用する術を知っていたため、彼らは土着勢力に相当な影響を与えた。したがって優秀な鉄器を持った移住民(赫居世勢力)が慶州の土着勢力(6集団)を支配しながら国家形成したと推測される。
 新羅の初期支配者は居西干(こそがん)・次次雄(ちゃちゃうん)と呼ばれた。
 居西干は君長を次次雄は巫(シャーマン)を意味する。
 このことから、初期新羅の政治的君長が祭祀長の性格を帯びていることがわかる。
 この段階の慶州平野一帯の諸集団は、政治的・軍事的な統率力お持たず、農業共同体的な性格が残っていた。これらの集団を結束させるのには、交易を通じた資源の再分配と祭祀儀礼が大きな役割を果たした。
 斯盧国では慶州一帯の土着集団の間に、東海岸地域から来た脱解(たれ)勢力が支配勢力として加わるようになったが、金閼智(きむあるち)の登場で再び金氏勢力が支配するようになった。この過程で斯盧国は周辺にある小国と連合したり、征服したりしながら発展した。この段階の新羅王たちは尼師今(いさぐむ)と呼ばれていた。尼師今は連盟に属する邑落集団のリーダー会議で選出された。
 朴・昔・金の3氏族が尼西今を交替で務めていた事実からこのことが分かる。尼西今時代に新羅は、朝鮮半島東南部に存在していた辰韓のしょ諸小国の中で主導権を握るようになった。
 新羅は、まず南東海岸にあった蔚山(うるさん)と東萊(とんね)地域の諸小国を征服」した。この地域は海路で中国・倭国に結びついている重要な地域であった。
 さらに、東海岸地域と洛東江流域の諸小国を征服して行きながら防衛に重要な地域の城を築き、伽耶や百済の侵略に備えた。
 そのようにして、2世紀中頃には洛東江東側・小白山脈南側・東海岸の江陵南方にあった諸小国の大部分を服属させた。それがもとになって新羅は、4世紀後半の麻立干(まりぷかん)時代に飛躍的に発展した。麻立干は「大君長」と言う意味である、国内的には金氏による王位の世襲が確立し、建国に主導的な役割を果たした六部集団に対する王室の統制が強化された。
 新羅の王位は、朴・昔・金の3つの姓氏が輪番で務めていた。
 これは初期の新羅が諸勢力の連合に起源があるためである。
 第13代国王味鄒(みちゅ)は閼智の子孫であり、金氏としては初めて王位についた第17代国王奈勿(なむる)以後は金氏が連続して王位に就いた。
 一方、鉄製農機具・牛耕など先進的な農耕技術の普及・水利施設の拡充などによって生産力が増大した。また「骨品制ーこるぷむ」と言う独特の身分制度を整備し支配層の権威を保障した。

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 骨品制度
  「新羅の血統主義的な身分制度で、王族の聖骨(そんごる)・真骨(ちんごる)と、一般貴族の六頭品・五頭品などから構成された。上級官職はほぼ聖骨・真骨から選ばれ、六頭品以下は官職などを制限された。
 当初は聖骨から国王を選び、聖骨は父母がともに王族である朴・昔・金の三姓に限られた最上階級であった。父系が聖骨であっても母系がそれから外れた階級を真骨といい、王位継承の資格は与えられなかった。(ちなみに新羅の王は朴から七王・昔から八王・金から十三王である)
 小国の連盟王国であった新羅は王侯貴族の力が強く、国王の力がその分だけ弱かった。その弊害を越えるため、国王を中心とする中央集権的な政治運営を布く過程でこの制度が生まれた。
 第23代法興王(ぽっぷん)7年(520)に十七の位階に整備され聖骨出身者に限られていた王位継承の資格が真骨にひろがったのは、第29代武烈王(むよる)の跡を継いだ真骨出身の第30代文武王(むんむ)からである。聖骨出身で王位継承の資格が整っていた金春秋(きむっちょんちゅ)による王位の継承が遅れたのは、王族ではない金庾信(きむゆしん)の妹と結婚したためであった。文武王以降の王はみな真骨出身であるが、王位継承し格の枠が広がり、末葉には王位継承をめぐる争いが激しくなり国内秩序の乱れを生む要因にもなった」

 国家の重大事は、真骨貴族出身の大臣にあたる大等たちの会議である「和白-はぁべく」会議によって決定した。
 「和白」とは
  辰韓には、六つの村(楊山・高嚧・大樹・珍支・加里・高那)がありそれぞれの村の岳・山に天降った巫人がそれぞれの村長になっていた。紀元前69年3月1日村長たちが子弟を連れて闕山(たおるちろん)の堤の上に集まって相談し合った。この集いを「和白」といい、今日的に言えば合議制に相応するが、新羅独自の制度で長い間続けられた。

 新羅は其時、中国とも初めて交易を行い、自身の存在を誇示した。
 一方、南部地方に倭国が侵入すると、高句麗の広開土王に救援軍を要請して倭国を打ち破り、それを契機として高句麗の先進文化を受け入れた。
 対外的に新羅は4世紀末~5世紀初め、高句麗の南進によって一時高句麗の勢力下に入ったが、直ぐに百済や伽耶と同盟を結び、高句麗勢力を排除した。
 さらに小白山脈以南の辰韓地域」に対する支配を強化し、征服活動を推進した。
 そして中国の「北朝」に使臣を派遣するなど、国際舞台に進出していった。


 ※日本書紀の「皇太子」については、「日本思想史学会」で「聖徳太子」は「特定された個人を指すものでは無い」との見解を示される学者がみえると言う事で「厩戸皇子」とした。



     引用                韓国の歴史を知るための66章
                        図説 韓国の歴史
                        国史大系 日本書紀
                        現代語訳 日本書紀
                        愛知学院大学「朝鮮史」講義
                        愛知学院大学「日本思想史」講義


   鈴木純夫

Ⅶ:北海道和種馬ー新羅②

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イメージ 1金製の冠







































 新羅は三国の中で最も発展が遅れていたが、6世紀に入ると次第に基盤を固めて行った。
 6世紀初めの第22代智証王(金氏系・ちじゅんわん・500~514年)の時代には、農業生産が増大した(農機具を改良し牛耕(ぎゅうこう・502年)が用いられるようになった)。それに伴い殉葬も禁止され、農業労働力が安定的に確保できるようになった。首都の慶州では市場も開かれるようになった。
 国家が発展したことで、国名も「徳業を日に新しくして四方を網羅する」と言う意味の「新羅」と定められ、王権も強化され、王の称号も麻立干(まりぷかん)から中国式を取り入れて「王」と変えられた。

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 さらに新羅は優勢な軍事力と武器で、周辺の諸地域を征服した。このようにして国の容貌を新たにした新羅では、第23代法興王(金氏系・ぽぷんわん・514~540年)の時代に国家体制がさらに整備され、律令を頒布し、貴族の反対を押し切って仏教を公認し、思想の統一を図った。また、領土拡張において中心的な役割を担うようになった、兵部と真骨(ちんごる)貴族会議の代表である上大等(さんてどぅん)を設置し官位の高低によって服の色を変える公服制を実施するなど、官僚体制の枠も固めた。最終的に新羅は中国の年号を使用するようになったが、これは新羅が対内的に王権が確立し、対外的に中国と対等な国家であるという自覚を持っつていたことを示す。新羅が、第24代真興王(金氏系・ちぬんわん・540~576年)の時代に領土拡大を行えたのは、このような様々な努力の結果である。

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 真興王は活発な征服活動を行い、伽耶連合の全地域を征服して洛東江流域を掌握した。さらに百済と共同で高句麗を攻略して漢江上流の10郡を奪い、百済から漢江下流地域を奪って漢江流域を独占した。その後、北に攻撃方向を変えて江原道と咸鏡道の海岸地方まで進出し、征服した地域には巡狩碑を建立した。
 新羅の漢江流域進出は重要な意味をもった。まず、新羅はこの地域の豊富な生産物と人民を抑えることによって国力を大きくし、三国間の競争で優位に立った。さらに、黄海を経て中国と直接交渉することが出来る海路を利用して、東アジア国際社会で確固たる地位を築いた。

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イメージ 6ガラス瓶






































イメージ 7ガラス玉首飾り







































  新羅は漢江流域を占領してから管山城の戦いで百済軍を破り、伽耶に対しても最後の攻撃を行った。
 新羅は阿羅伽耶と非火伽耶を次々と征服し、562年には高霊(こりょん)の大伽耶も征服して洛東江一帯を完全に征服した。肥沃な穀倉地帯であり海上貿易の中心地でもあった伽耶地域を手に入れたことで、新羅の国力はさらに大きくなり、咸興平野まで進出した。
 真興王は領土拡大に自信を得て、自分を帝王または、朕と呼び、独自に「開国」と言う年号を使用した。
 15~16歳の貴族の子弟の中から優れた人材を選んで「※花郎ーふぁらん」と呼び、その下に多くの青少年を集めて山川を巡りながら心身を鍛えさせた。彼ら花郎徒は三国間の戦争と新羅による統一の過程で重要な役割を果たした。


 ※花郎
 花郎とは、新羅の貴族出身の青少年で組織された集団の頭の呼称で、15~16歳の青少年が女装をして麗しく着飾っていた。前身である原花(うぉんふぁ)という集団では、南毛(なむも)と俊貞(ちょんぴょん)と言う二人の麗しい少女を頭としたが、嫉妬が高じて俊貞が南毛を殺すと言う事件が起こり、頭を男性に変えて女装させる。その団員たちを花郎徒といい、これは新羅にしかない制度で国造りに大いに貢献した。その集団を支えた精神を花郎道精神といい、それは統一新羅を樹立する礎になった。
 花郎集団は新羅の人材教育の組織で、集団の構成員数はときによって異なるが200~1000人ほどであった。花郎徒は武術や身体・精神を鍛えながら軍事に備えるが、平時は景勝地を逍遥し吟行しながら歌舞を楽しみ、戦のような国事が起こると国のために殉ずる精神を鍛錬していた。
 花郎は兜卒天(とdそつてん)から下生した弥勒菩薩にたとえられるほど称揚され、将軍職に就く多くの人材を輩出した。「世俗五戒」と呼ばれる五ヶ条の精神修練は、儒教・仏教・道教の三教にもとづき、忠君愛国の精神を修養した。

イメージ 8花郎の理想の青年像









































    引用                     図説 韓国の歴史
                            韓国の歴史を知るための66章
                            愛知学院大学「朝鮮史」講義






        鈴木純夫

























Ⅶ:北海道和種馬ー番外編

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イメージ 2賀茂神社創建1,275年式年大祭 流鏑馬神事

滋賀県近江八幡市加茂町1691番



賀茂神社由緒
元正天皇(在位715~724年)の養老元年(717年)下道朝臣吉備らが近江国蒲生郡船木荘中小路村に下って社地を選び奏聞。
聖武天皇(在位724~749年)天平8年(736年)社殿を創建、賀茂大神を鎮祀した。皇室の尊敬が厚く、武門・武将の崇敬も深かった。
なお賀茂荘と称し荘園内の氏神として一般の信仰を集めた。



                                                                   
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賀茂神社正面




















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       拝殿
 

 「流鏑馬神事」と「馬上武芸」
 
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  走路を囃太鼓を先頭に、演武者・使役全員での行列行進。

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  走路の安全を祓う「馬上舞」  羽衣が流れ見事なバランス力が分かる。

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 正装の神事射手は「扇」に「神」への尊厳を託し、大きな所作の後、天高く投げ放ち出走する。

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 1の神事射手、見事に一の的的中し紙吹雪が舞う。

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 2の神事射手、二の的的中し紙吹雪が舞う。

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 3の神事射手、二の的的中し同じく紙吹雪が舞う。

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 平騎射、「5寸扇で、直径1寸5分の赤い図星」の真ん中を的中させた超難度な技術。

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 駆け足による馬上舞 安定した見事なバランス力である。

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  3騎による「じぐざく走法」の流し旗。狭い走路を体重の移動でバランス良く乗っている。

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   弓手追物射(ゆんで おものい) 弓手とは「左方」を言い、前方の敵を射る。「的中」

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 押捩(おしもじり) 後方よりくる敵に、体を左後方に大きく捩り矢を放つ。「的中」

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 追物射・押捩の同時打ち  高句麗の5世紀古墳壁画に見られる。「両者とも的中」

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 弓手下(ゆんで した) 獲物又は草村に潜む敵を射る。高度な技術が求められる。「的中」

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 馬手追物射(めて おものい) 馬手とは「右方」を言い、弓を馬の首を大きく跨ぎ射るもので、高度な技量が求められる。「的中」

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 馬上での薙刀(約6尺7寸)の演武 薙刀の重さがあるため、力とバランスが求められ難度が高い。

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 長巻(約5尺4寸)の演武 刀の半分程が柄で、供の物を引き連れ、抜くやいなや「押し通」の声と共に大きく振りかざす。

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 3騎が「満月の形」で構え、1の射手・2の射手・3の射手が連射し、「パン・パン・パン」と見事に的中させ、復路では「捧げ弓の形」で馬場元に戻る。


 以上が、観客200名程の中で行われた大祭の、「流鏑馬神事」と「馬上武芸」である。


 ※神事射手とは、直垂(ひたたれ)・水干(すいかん)を着て、頭に後三年烏帽子の上に綾藺笠、両手に白の手袋、左腕に射籠手、腰に夏鹿の毛皮で出来た行縢(むかばき)を履き、左腰に太刀と短刀・弦巻、右腰に箙(えびらー矢の入れ物)を着用している。
(この出で立ちは、一説に源頼朝が富士の裾野で狩りをしたときに使用していたものだと言われている)
※直垂・水干は鎌倉時代の装束で、現在の着物の原型とも言われている。


      引用               全国神社名鑑
 

      協力               賀茂神社1,275年実行委員会
                        紅葉台木曽馬牧場
                        甲州和式馬術探求会

      写真提供            林  佳夫 氏




                                                   鈴木純夫




































                                                                                                         
                                                              
                                                                  

北海道和種馬ー新羅③

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  7世紀中盤に入ると三国は、急速な展開をみせた。642年、百済は新羅を攻撃し、大那城(でやそんー慶尚南道侠川所在)をはじめとする新羅西部地域の要塞地を蹂躙した。この難局を打開するため、新羅の金春秋(きむちんじゅ)は高句麗の平壌城(ぴょんやんそん)を訪問し、その年にクーデターで執権した淵蓋蘇文(よんげむそん)と会談した。両国間の戦争をやめ、関係を改善しようとしたのである。しかし、漢江流域の返還を求める淵蓋蘇文の要求と判断の相違のため会談が決裂すると、逆に新羅に対する高句麗の攻勢が強化された。
 645年※①には唐の大軍が高句麗に侵攻してきたが、安市城(あんしそん)の戦いに敗れ退却した。金春秋は最後の協調対象であった唐に赴き、新羅と唐の同盟を積極的に推進した。唐は高句麗侵攻が失敗に帰した後、高句麗の南部国境に第二戦線を構築することを望んでいたため、喜んで新羅と手を組んだ。ここに新羅と唐との強力な軍事同盟が成立し、6世紀末以後、高句麗をめぐり展開されていた三国間の対立の波と、中国の統一王朝と高句麗との間の戦争の波が直接結びつくようになったのである。その波は東北アジアの情勢を根底から揺るがすものであった。

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   第29代武烈王(在位654~661年)三国統一のため各将軍らと百済攻略作戦を立てている


 新羅と唐の、このような動きに直面し、高句麗と百済は協力を模索した。さらに高句麗はモンゴル高原の遊牧民国家薛延陀(せつえんだ)と中央アジアのサマルカンド地域にあった康国(こうこく)などに使節を送って同盟を模索した。当時、康国を訪問した高句麗使節の様子が描かれた壁画(アラシャブ壁画)が近年発見され、使節の存在が裏付けられた。こうした試みは、唐を多方面から牽制するためのものであった。一方、百済は大和(日本)との関係を強化した。
 このように7世紀中頃、東北アジアの情勢は朝鮮半島をめぐり、東西の同盟軸と南北の連結軸が交差し対立する形勢を示した。しかし、前者が後者よりも結束力が強かった。

  続く。


  引用               愛知学院大学「朝鮮史」講義
                    図説 韓国の歴史
                    日本軍事史

   
    鈴木純夫
 


















































 

Ⅶ:北海道和種馬ー新羅③ー2

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 続き

 660年ついに新羅が唐と連合して百済を攻撃した。百済は既に防衛力を喪失した状態であったため、たやすく崩壊してしまった。百済が滅亡すると各地で百済の遺民が復興運動を起こした。福信(ぼくしん)・道琛(とちむ)・黒歯常之(ふくちさんじ)・王子豊(わんしぶん)などが復興軍を率いて活躍したが。663年※②、新羅と唐の連合軍が百済復興軍と大和(日本)軍を錦江河口で撃破したことを契機に、百済の復興運動は次第に消滅した。

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 百済の滅亡後、比較的自由に動けるようになった新羅軍の支援を受け、唐軍は高句麗を度々攻撃した。高句麗の戦略的位置は非常に弱まった。そのような中で、長い戦乱により疲弊した高句麗で淵蓋蘇文(よんげむそん)が死亡すると、彼の息子たちの間に内紛が起こった。この機に乗じ、新羅と唐の連合軍が大攻勢をかけたため、高句麗は668年についに滅亡した。唐は平壌に安東都護府(あんとんとごふ)を設置して高句麗地域を唐の領域にした。高句麗の滅亡後、高句麗各地でも剣牟岑(こむもじゃん)・安勝(あんすん)・高延武(こよんむ)などが復興軍を率いて活躍した。
 新羅の三国統一により朝鮮半島には平和が訪れ、人々は戦争の苦しみから解放された。しかし、新羅による三国統一の過程は、侵略者と結託し同族国家を滅亡させ、かつての高句麗の広大な領域を放棄したという悲劇的な側面を有していた。一方では、三国の民の間に存在した異質性をなくし同類意識をもたせ、一つの「民族」を形成する重要な契機ともなった。三国統一を契機に、初めて一つの民族共同体が形成され、民族国家の基盤を整えたのである。
 しかし、統一戦争が外国勢力である唐の勢力を朝鮮半島に引き入れて遂行されたという点に大きな限界があった。また、三国統一が不完全であったため、朝鮮半島北部と中国東北部地域を失ってしまうという限界もあった。よって、新羅による三国統一の意義を否定し、高麗(こまー901~1,391年)による統一が民族最初の統一であるという見解も提起されている。しかし、一部に限界があったとしても三国統一の歴史的意義を無視することは出来ない。領土をを失った不完全な統一は渤海(ぼっかいー698~926年)の建国と高麗の再統一により補完されたのである。また、外国勢力を引き入れて同族を討ったという批判もあるが、当時の三国と唐は各々が別個の国家として競争関係にあったという点からみれば、新羅王室が自国の困難を克服しようとした努力の結果とみることもできるであろう。

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 ※①大化元年、中大兄皇子(なかの おおえの みこー天智天皇ー在位:668~671年)は蘇我倉山田石川麻呂(?~649年)や中臣鎌足(なかとみの かまたりー藤原鎌足ー614~668年)の協力を得て、王族中心の中央集権を目指した、蘇我蝦夷(そが えみしー?~645年)・入鹿(いるかー?645年)を滅ぼした(乙巳の変ーいっしのへん)

 ※②663年8月、朝鮮半島南西部錦江河口の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅対大和と百済の遺臣の決戦が、2日間に渡って行われ、唐と新羅連合軍に突撃攻撃を試みたがいずれも失敗。400余隻の船(新羅の記録に大和の水軍は、1、000艘隻、唐の水軍は170艘隻とあると言われている)は炎上し、海水は大和軍の死傷者で赤く染まったと伝えられるほどの惨敗であった。
 この惨敗の理由として、戦況判断の誤りという作戦上のミスも指摘されるが、根本的には豪族連合軍という大和軍の編成形態に問題があった。
 相互の意思疎通を欠いたまま、豪族軍が個別に突撃を繰り返し、各個が撃破されて行ったのが戦闘の真相であろう(大和王権は地方に強力に支配していたのではなく、地方の豪族の政治勢力と緩やかな政治的連携を結ぶに留まっていた)
 謂わば、豪族連合軍の持つ弱点・欠陥が大きく露呈されることになった事である。
 それまでの豪族連合に代わる、新たな軍事編成方法が模索されることになる。
 国制上の重大な変更として、豪族連合軍という編成形態と政治体制を、政治体制そのものを変える新たな政治体制、それが「律令」であり「律令国家」であった


    引用                  愛知学院大学「朝鮮史」講義
                         日本軍事史
                         図説 韓国の歴史


     鈴木純夫
 

Ⅶ:北海道和種馬ー伽耶①はじめめに

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イメージ 1図ーA

高句麗・百済
新羅・伽耶



































イメージ 2図ーB
高句麗・百済
新羅・任那





































 今更ではあるが、本ブログは出来得る限り、現地直接取材・体感取材を軸に掲載することに努めているが、現在掲載中の朝鮮半島に行く試みはしたのだが、下記の理由により行くこと無しに掲載をしてしまっていることを読者の皆様にお詫びしたい。
・2年ほど前に筆者の甥が、韓国N電工SOLUTION CENTER/center長で、5年ソウルに駐在しており、ハングルでの会話・読み書きが出来るため、通訳として韓国南西部(旧百済・伽耶地域)を4日間案内して欲しい旨を伝えたところ「その他の地域なら良いが、僕のハングル能力では行かない方が良い」と丁寧な断りの説明があった。

はじめに
 筆者(昭和27年ー1952年生まれ)が受けた朝鮮半島の4国は、図ーBの「倭王権による任那日本府を通した植民地収奪・朝鮮半島侵略の結果」の教育であった。
 しかし、「任那」が「伽耶」に変わった図ーAは、1980年代以降に韓国の研究者だけでなく、日本の一部の文献史学者によって、「任那日本府」が6世紀前半、一時的に咸安(はまん)の阿羅伽耶に派遣された倭の外交使節が滞在した「倭臣館」のようなものであった事が明らかにされたり、考古学の面からも「鉄製甲冑や馬具・金銅製の装身具の出土品から、日本列島で独自に発展したと考えられてきた文物が、朝鮮半島に起源を持った事が確認されたり、鉄製甲冑が出土したことを契機として、伽耶地域に日本列島文物が移入された可能性が提起された。

イメージ 33~4世紀日本列島から出土した、金官加耶産の文物




































イメージ 44世紀金官加耶地域から出土した、日本列島産文物




































イメージ 55世紀後半日本列島から出土した、大加耶産文物




































イメージ 65世紀後半大加耶地域から出土した、日本列島産文物
 



































 それは、伽耶と倭の文物と人の移動が、一方通行ではなく相互的であったことを示していると思われることから、図ーAが現在の教育の現状であることと理解する。
 (筆者が、開放講座聴講生として通っていた大学の書籍店で購入した「現在の高等学校で使用している日本史・世界史の教科書」は、図ーAである)
 
 一方、未だに古代日本人の居留地、交易の中心であり朝鮮半島中南部を軍事的に押さえる要衝の地と考え「任那日本府」説をとなえる研究者は、「現在の高等学校で使用している日本史・世界史の教科書」を否定し、「日本書紀」・「古事記」・「魏志倭人伝」・「三国史記」にもとずき推論されたり、筆者が「高句麗」で掲載した「日本陸軍軍部」が意図的に加筆・修正された、「広開土王碑」に「任那」の刻字があることに頼っておられるように思われる。
 但し、「任那」が一国としての体裁が最後まで整わなかったと述べておられる点については、「伽耶」にも同じことが言える。

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 本年は「伽耶」と、「任那」説があることに触れただけで筆をおき、建国から滅亡までは来年掲載させていただく。


 引用                   図説 韓国の歴史
                       加耶と倭
                       韓国歴史地図
                       海を渡った日本文化
                       中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史
                       知っていますか 任那日本府
                       詳説 日本史B
                       詳説 世界史B
                       日本書紀



イメージ 9平成28年11月7日発行

筆者が「甲州和式馬術探求会」の解説を入れ、著作者に「和式乗馬術」を説明するため、乗馬方法を記した、「騎術藻塩草ーのりわざ もしおぐさー全854首」の中から、20首を選び提供した。
























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 平成28年7月30日(土)に、山梨県馬術競技場で行われた、「第38回八ヶ岳ホースショーin小淵沢」で演武を披露する、「甲州和式馬術探求会」の会員   P26~29に記載あり。


  引用         サムライの筋肉が疼く 「スポーツ流鏑馬入門」

  協力         紅葉台木曾馬牧場
              甲州和式馬術探求会

  写真提供      林 佳夫氏



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            現代美術家協会中部支部長・田中敏夫氏画

 来る年が、愛読頂ける皆様におかれまして、健やかで、幸多からんことを祈念いたします。

   平成28年12月31日
                             鈴木純夫



Ⅶ:北海道和種馬ー伽耶②

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 伽耶は、洛東江(なっとんがん)西岸の6つの小国から始まった。
 建国説話には、次のようにある。
 伽耶9村の頭目が集団を率いて亀旨峰(きじぼん)に上がり「亀旨歌」を歌いながら踊りを踊って遊んだことがあった。そのとき天から黄金の卵を得て、その卵から男の子が6人生まれたという。その中で最初に生まれた子が首露(すろ:42~199年)であり、それぞれが王になった。

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 6伽耶の中でも最も発展した国が金海(きめ)にあった金官伽耶であった。金官伽耶は洛東江流域の肥沃な沖積平野を支配し、農業の発展に最適であった。
 さらに楽浪郡と倭との海上交易拠点として急速に発展していた。この時代、この地域で生産される豊富な「鉄」を用いて、中国・倭との交易の中心地になった。大量に生産される「鉄」で優れた鉄製の道具が多く作られた。
 このような鉄器を楽浪郡・倭に輸出し、両地域の交易を中継することで経済力を大きくした。

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 伽耶は高い水準の文化を持ち、その文化は後に新羅に大きな刺激を与えた。また一部勢力は倭国へ進出し、倭国文化の発展と国家成立に寄与した。
 しかし、伽耶6国に分かれており、連盟は構成したものの、強力な統一国家が出来なかった。
 それは、小国それぞれが交易を通じて経済力を大きくし独立していたためである。
 これら伽耶国は早い時期から、領土問題を巡って、新羅と洛東江下流地域で何回も戦ったが常に敗れていた。こうして洛東江東岸への進出に失敗すると、伽耶は西方の百済と緊密な関係を結んで新羅をけん制した。
 4~5世紀初めにかけて新羅が強大化すると、伽耶は大きな打撃を受けた。
 しかし、高句麗が平壌に遷都(427年)すると、新羅と百済は高句麗の南下に対応しなければならなくなり、その間隙を突いた伽耶は勢力を回復することが出来た。
 このとき6伽耶は高霊(こりよん)を支配していた大伽耶を中心に統合しようとした。
 大伽耶は、伽耶の代表勢力に成長し、新羅・百済・高句麗の3国と競争しながら中国の南朝に使臣を送った。
 新羅23代法興王(ぽぷんわん:532年)、金海の金海伽耶(きめかや:10代仇衡王)が新羅に服属した。
 危機意識を感じた伽耶の諸国は、大伽耶を中心に新羅と立ち向かい、百済と同盟を結んだ。
 そのため、554年に新羅と百済の間で管山城の戦いが起きた時には、伽耶は百済を支援した。
 しかし、この戦いで新羅が勝利したことで、伽耶は不利な立場になった。
 伽耶は新羅と百済の圧迫と攻撃を受け徐々に勢力が弱体化した。
 結局、伽耶は新羅と百済の狭間にあって古代国家に発展できなかった。そして新羅の攻撃を受けて大伽耶が滅亡すると、歴史上から姿を消した。

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 11代垂仁天皇~29代欽明天皇の時代に、伽耶との最新の文物・知識が倭国に伝えられ、漢氏(あやし:百済・伽耶系)や秦氏(はたし:新羅・伽耶系)の渡来人によって倭国文化に大きな影響を与えた。

 このように、伽耶は百済や新羅と対抗し得る性欲には成長できず、国家の競争の中で新羅に滅ぼされた。
 これは、伽耶の文化水準が低かったのではなく、政治的統合の中心に成り得る国が存在しなかったのである。

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          伽耶の古墳図


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          金海地方から出土(5世紀頃)

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          金の冠

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        金の耳飾り

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            指輪と勾玉


 引用                     図説 韓国の歴史
                         加耶と倭
                         韓国歴史地図
                         海を渡った日本文化
                         日本史小典



         鈴木純夫
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