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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ:北海道和種馬ー江戸時代後期の野馬追い

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 放牧地より野馬追いにて構(かこい・下図)に入れた馬の中から、良馬を選び捕縛している様子。
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構(かこい)の広さ:約3,000坪  堤の高さ:約6.06m  木戸の幅:約5.46m


 友人から貰った古書の中に入っていた「厩馬新論」に、江戸時代後期の駒取りの様子が書かれており、挿絵で説明されている部分のみを、自身の読み下しで紹介する。

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文化3年(1806)龍山堂主人著で、馬の飼養法・調教法・給餌などについて書かれている。

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小金内野(現在の千葉県松戸市小金町・古代より千葉県には多くの牧があった)などの牧にて
野馬を採るには、秋は9     
月おそくとも10月の中頃
までを以ってす。すべて
日は定らず。勢子のもの
諸方より追出し、3日
めにこれをとるなり。
勢子は近郷の農民に
役をおうとし用うる
なり。3日があいだは
家へかえるいともなき
ゆえに、皆々蓑と弁当
を背負い、杖を手に持って
追いあるくなり。騎馬の
牧子5~7輩(ともがら)、勢子とともに
追廻し、堤を築立(つきたち)を構へ
たるところ近く漸(しだい)に追来
りて、木戸の内へ馬を追入
るなり。広き野原より
小さき木戸のうちへ。

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なかなか多くの
野馬の入べき
ようにとおもはれ
ぬを、とかくして
一所へ集め牧子
の馬、やがて先
木戸のうちへ
駆入れば
野馬数百
匹それに
つづきて
走りこむ
なり。
大かた
四五百匹
以上も入
たらんと
おもうところ
に木戸の扉
をうちてそれ
よりしばらく

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憩い。ややありて
第一番の法螺貝
の音とともに
人々うちより、
二番の貝ふくにて
役がかりのもの
居並び、三番の
貝にて右の方
より馬を追出し
あちらこちらと
逃げ廻るを大勢声
あげておい
にらむるなり。歩
立(かちだち)の牧子は竹
の先へ紐にて
輪をつけたるを
持ち出しよきほどを
みて馬の首へ
うちかかるを
合図に
野馬役

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かけよりて
先一人馬の頭へ
とりつき、右の手
にて馬の両足
をすくいながら
転ばは倒すなり。
それから皆
立かかりし脚
を結い口へ長き
縄をつけ、尻へ
焼印をして
前の木戸へ引
出し、酒々井(現在の地名不明)の
駅(しゅく)へ送るなり。
またたとい良
馬と言えしを
二年子なれば
焼印したるまでにて
堤の内の左のかたへ
追こみおきて、外へは

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やらぬなり。春に
あるは二三月の頃
にただ一日のうちなり
とぞ。



       引用         厩馬新論


 

        鈴木純夫



Ⅶ:北海道和種馬ー馬匹の改良②東洋一の新冠牧馬場②

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         エドウィン・ダンと輸入馬

 明治12年(1879)9月4日
 新冠牧馬場へ外国種馬数頭の整備を要請
  新冠牧馬場の外国種馬2頭が、4日程前に死んでしまった。もしも存命ならば、明後年には60頭の駒を生ん        でいたであろう。
  将来、種馬の欠乏を無くすには、約4頭の種馬及び種取り牝馬10頭を来春なるべく早くアメリカ国より購入吸う事を切に願う。
  数頭の種馬及び牝馬を、一時に多く購入すればその価額・運賃・看護費用を1頭あたりにすれば、実にわずかなる価額である。
  新冠の牧場の様に、連綿甚だしき馬数を成育させる目的で購入することを勧奨するのは14頭の馬にて、種馬4頭・種取牝馬10頭で種馬の需要に充て絶えず馬数を増殖させるべきである。
  この馬たちは、将来日本において利益を与える最も貴重なもので、当を得ば全国の馬性を改良すべき事を確信する。
  純系種(サラブレット)の種馬2頭及び、同種取牝馬5頭、ならびに大きさ中等のペルシュロン種曳馬2頭及び、同種牝馬5頭を購入することを良策と考える。
  2種(サラブレット・ぺ二シュロン)の馬を各7頭購入すれば、乗馬・騎兵・軽荷馬・重荷曳馬及び強壮なる農業用曳馬に用いれば、各種の馬が国内に増加するであろう。                                  
                                                                                                                                
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    サラブレット

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   ぺ二シュロン

 同年9月29日
 牡牝区分の放牧柵矢来の新設につき測量
  新冠牧馬場に設ける牡牝区分放牧柵矢来新設のことは、決まり次第速やかに着手すべきであるが、場内は広大・高低差があり尋常の憶測には屈曲を生じ、体裁不義で開墾地の坪数並びに静内郡遠仏村方面囲い込みの広狭も判然とせず、開拓使本庁勧業課課員の派遣検測をお願い申し上げる。

 明治13年(1880)2月16日
 新冠において払い下げの牧馬代金・新冠改良のための費用方の件
  先年中、新冠において払い下げされた牧馬代金、3、300円を新冠改良費として使う様、開拓使本庁会計局に以下の概算書を提出した。
 第1条:種馬2頭をアメリカ国より購入の事
      サラブレット・ペ二シュロン
    ①:年齢、5~8歳まで
    ②:体高、1.52~1.64m
    ③:体重、サラブレット・412㎏以上
          ぺにシュロン・468~525㎏
    ④:両種馬とも順良児にして少しも悪点なく健全なるを」要する。
    ⑤:両種馬ともに体形・骨格共に正良にして緊密なるを要す。
    ⑥:両種馬ともに血統書正しきを確す。
    ⑦:既に子を生じたる血統馬なるを要す。
    ⑧:血統馬の代価はアメリカ国の州において、1頭500ドル程(筆者は現在の換算値を計算出来ず)で購入され、ケントケー(該当地不明)からサンフランシスコまでの運賃並びに食糧費が200ドル。サンフランシスコの港で汽搬出帆まで15日間で30ドル支払う。サンフランシスコから横浜港まで運送費が200ドルで雑費(餌代金など諸書347ドル)で合計1,804ドル(日本円で2,615円80銭と記録にある)

 第2条:機械並びに農具等アメリカ国より購入の事
     ①: 新墾犂(新式の西洋鋤)  2挺   242円
     ②:草刈り機   1台             225円
     ③:乾草散布機  1台            190円
     ④:乾草叉(乾草用熊手)  24本      42円
     ⑤:鎌              12本      45円
     合計                       744円

  1条・2条合わせて               3,359円80銭


 
  引用           御雇教師 エドウィン・ダン  北海道の馬事の礎を築く


    鈴木純夫          

Ⅶ:北海道和種ー「石和八幡宮流鏑馬神事」

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    馬上武芸:長鑓の迫真演武

 平成27年3月29日、山梨県笛吹市の笛吹川左岸河川敷において「石和八幡春季例大祭」に合わせ、「石和八幡宮流鏑馬神事」が,[和種馬」にて「甲州和式馬術探求会」の「甲斐駒流鏑馬」にてご奉納された。

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 八幡神社
  祭神:誉田別命・息長足姫・姫大神
  例祭:9月15日
  建物:本殿神明造
  由緒:第84代順徳天皇10年(1210)石和五郎信光が相州鎌倉鶴岡八幡宮を石和の地に勧請。国衙八幡宮と称し、武田氏の氏神とした。その後、武田左京太夫信虎が躑躅ヶ崎館を築くにあたり、その西方に移した。
  文禄年中(1592~1596)、浅野弾正長政が甲府城を築くと同時に、今の地に移祀して甲府城の鎮守祈願所とした。徳川家康が入国社参し城代・平岩親故吉に命じて社殿を改造させた。甲州支配下160社神主・年中両人で順番に交代参宿し安泰祈願を勤行した。
  明治5年県社に列格。
  (全国神社名鑑に「石和八幡宮」の掲載が無く、山梨県に9社の八幡神社があり上記の八幡神社が「石和八幡宮」に該当すると思われる。例大祭は現在は、4月3日である。)
  

 石和八幡宮流鏑馬奉納奉告祭

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  奉行を先頭に、河川敷に設けられた神前に向かい行列行進

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   宮司さんによる祝詞奏上

 流鏑馬神事

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 蟇目放射の儀
  神事が安全に無事に納められるよう願って行われる。
  射手が矢を放った時、「ヒュー」と高い音の出る「鳴り鏑」と言う物を矢の先に付けて行う。この「鳴り鏑」の発する高い音は、古来より魔物を祓うとされる。

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  馬上舞い
   扇を、左右上下に華麗に振り翳し穢れなる物を祓う。(和式馬術ならではの、上半身の安定感が見て取れる)

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  単騎流し旗
   「流鏑馬神事、奉納、仕り候」と口上
  鎌倉期頃に、自軍を鼓舞し、敵方を徴発させた流し旗。
  旗には「甲州和式馬術探求会」の「甲斐駒紋」が描かれている。
  古い諺に「一旗揚げる」と言う語源があるが、この旗に依るとも言われる。

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    1の射手
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   2の射手
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   3の射手

 流鏑馬
  馬場に三つの的が設置されており、この一つ一つの的に願いを込めて、三人の射手が矢を放つ。
  装束は、頼朝が富士山麓で狩りをした時のものに倣っている。
  両手に革手袋・左腕は矢を放つときに裾が邪魔にならない様射籠手を着け・腰から足先までは、夏鹿の毛皮で出来た「行縢(むかばき)」を纏い・頭には後三年烏帽子の上から綾籣笠を被り・左腰に太刀と前ざし・右腰に矢を納める「箙(えびら)」を負う。


 馬上武芸

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 蟇目(ひきめ)
  三人の射手が、矢の番えから放つ姿勢、そして矢を放った後の姿勢までを全員が同じ型で次々と行う。

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  5色の色鮮やかな流し旗

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  追物射(おものい)
   左前方の的を射る。

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  弓手下(ゆんでした)
   左下の的を射る。

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 押捩(おしもじり)
  体を左後方に捩じり、的を射る。

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  馬手(めて)
   弓を大きく構、馬の首を跨ぎ右前方の的を射る。(難度が高い)



   引用         全国神社名鑑
   協力         紅葉台木曽馬牧場(代表・菊地幸雄氏)
               甲州和式馬術探求会(会長・長谷川ます枝)
   写真撮影      林  佳夫氏



     ※平成27年4月23日(木)BS日テレ 午後9時放送
  「解明!片岡愛之助の歴史捜査」の番組収録が3月17日に「紅葉台木曽馬牧場」で行われました。
  出演は、紅葉台木曽馬牧場代表・菊地幸雄氏と、スタッフの漆澤太氏。
    馬は、宝泉(和種馬)とサワー(木曽馬に西洋種が入っている)の2頭が、「馬」の概念を見せつけ      てくれます。




               鈴木純夫(甲州和式馬術探求会会員・奉行役)














































 

Ⅶ:北海道和種馬ー馬匹の改良②東洋一の新冠牧馬場を整備②

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 黒田清隆:明治7年(1874)8月~15年2月の間、開拓使長官となったが北海道には赴かず在京。
        明治21年(1888)4月30日~22年10月24日、第2代内閣総理大臣(薩摩藩出身)

 明治13年(1880)2月24日、調所広丈(ずしょひろたけ)大書記官は黒田清隆長官へ、エドウィン・ダンの要請にもとづいて新冠牧馬場の整備を伺い出たが、「明治13年からは太政官・大蔵省などの通達で、国内産で間に合う物は一切輸入を禁止されているので先に提出した伺書はそのまま返却する。馬の払い下げ代金は税外収入であり、種馬購入の際は新たに予算を組んで請求されたい」と、7月22日付で東京出張書記官から本庁書記官へ厳しい回答が送られてきた。

 同年6月23日 札幌本庁管下新冠牧馬場出産の土産馬の価格増加に係る件
  新冠牧馬場において出産した土産馬のうち、本年200頭を競売するよう電報があった。それは当牧馬場の都合であるが、北海道の馬は四蹄は堅固で一日中使役しても疲労せず、馬車や競争等に使用しても駿健の称誉あり。常に有名なる薩摩産馬と拮抗して価額が増加するのは、真に末頼もしい次第である。
  これからは精選と馴練に注意すれば、運賃が掛っても東京へ輸送して売却しても多少の利益があるからなお一層、骨格・感性の上等な馬を精選して移出し、名声を上げるようにされたい。

 同年8月13日 エドウィン・ダン、調所広丈大書記官へ再度新冠牧馬場整備事業に必要なアメリカ製農機具購入の申し出た。

 同年9月13日 札幌本庁書記官は東京の物産取扱い所長に、エドウィン・ダンの意見を取り次ぎ国内産農機具では、新冠牧馬場整備事業が不可な実情を説明した。

 同年12月下旬 物産取扱い所は黒田清隆長官へ、新冠牧馬場整備事業農機具の輸入の稟議を要請。

 明治14年(1881)1月18日 物産取扱い所長は札幌本庁書記官へ外国製品の輸入は厳しいが、雇教師エドウィン・ダンの意見もありアメリカからの農機具の輸入が、黒田清隆長官と稟議の結果許可されたと回答してきた
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  馬の体重計

 明治14年(1881)5月28日 
  エドウィン・ダン、鈴木開拓権大書記官の指示に従い、新冠牧馬場の将来の経営政策を提案する。
 1:牧場を牧柵で囲ったのは、外国種馬と交接させる母馬・仔馬を他の馬と隔離するためである。
 2:土産の牝馬と南部種馬との交接には、旧牧と山野を使用する事。
 3:牧場内外の山野に棲息する土産馬は、良く確かめて捕獲した後売却する事。
 4:5分雑種・4分3雑種種馬の改良機運が現在の北海道においては無いため、利用法を検討をすべきであ                    る。馬の使役は残忍で厳冬でも飼料を与えないし、仔馬も酷使する。これ等の馬に種馬を与える必要はないが、改良を志す者には無償提供するなどの便宜を図る事。
 5:5分雑種・4分3雑種の牝馬を積極的に繁殖に供し、土産牝馬を牧場から皆無にする事。
 6:頭数に見合う冬用厩舎が必要である。約50頭を収容する厩舎を年次計画で整備すべし。
 7:職員は50人が必要であり、その半数は有能なアイヌ人とする事。合わせて、住宅と給与に特段の配慮が必要である。
 8:耕地から厩舎への車道の整備・海岸から放牧地への車道の改善・静内川の洪水から耕作地を守る堤防を設ける事。
 9:新冠牧馬場の主任には多くの権限を与え、本庁の決済が出来ない組織の改善を図る事。
 10:単位年度予算を止めて、事業が4~5年継続可能な予算を組めるよう改善すべし。
 11:西洋種馬の不慮の事故を考慮して、3頭~4頭を常備する必要があり内務省の牧場からの割譲・アメリカからの輸入を希望する。
 12:現有農機具は不十分でかつ破損が多い。農機具の不備は農作業の妨げになるため、堅固な農機具を確保すべし。
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   二十間道路

 明治15年(1882)2月1日
  開拓使廃止
   新冠牧馬場は農務省所管となる。

  明治17年(1884):宮内省所管。
  同21年(1888):新冠御料牧場。皇室用の乗馬・輓馬の生産をはじめとし、交通運搬用や農耕用の大型    馬匹の改良・生産を行い、戦時には軍馬の生産も行われた。
  昭和22年(1947):農林省に移され「新冠種畜牧場」となる。
  同24年(1949):馬の生産を廃止し、乳牛の品種改良研究を行う牧場に転換され、現在「独立行政法人家畜改良センター新冠牧場」となった。


 同年6月30日
  エドウィン・ダンの引き継ぎ目録
 1:新冠牧馬場目録
  新冠牧馬場面積:20、596,789坪=約6,865ha
         代金:10、298円39銭4厘(現在の価値に換算出来ず)

  開墾地:約30万坪=約100ha
     内訳
       墾成地:100,700坪
         代金:674円69銭
       荒地:90,300坪
         代金:95円15銭

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 2:建家目録
   イ:事務所1棟、桁間:4間  梁間10間
          代金:1,358円26銭9厘
   ロ:生徒舎1棟、桁間:4間 梁間10間
          代金:1,358円26銭9厘
   ハ:西洋種馬舎1棟、桁間:3間 梁間:8間
          代金:198円65銭9厘
   二:その他建物8棟
          代金:2,311円83銭
   ホ:本厩舎1棟:378坪
          代金:4,505円7銭
   へ:2号厩舎1棟:148坪5合
          代金:2,352円9銭
   ト:1号厩舎1棟:156坪7合5勺
          代金:2,150円

 3:新冠牧馬場係人名簿
    旧開拓使農業一等卒士~雇大工   合計28名

 4:新冠牧馬場の馬目録
    イ:牧馬=559頭
      牡馬:117頭  代金:6,235円
      牝馬:442頭  代金:12,610円
    内訳
     イ:西洋種馬:3頭牡 代金:1,500円  (500円)
     ロ:2回雑種馬:9頭
             牡:5頭 代金:600円   (120円)  
             牝:4頭 代金:400円   (100円)
     ハ:1回雑種馬:70頭
              牡:22頭 代金:2,200円  (100円)
              牝:48頭 代金:3,840円  (80円)
      二:雑種馬:32頭(1回雑種の牡を土馬牝馬に交接し分娩した馬)
              牡:14頭 代金840円  (60円)
              牝:18頭 代金:900円  (50円)
       ホ:退却雑種馬の牡:2頭 代金:70円  (35円)
       へ:内国種馬:443頭 
              牡:73頭 代金:1,015円  (15円)
              牝:370頭 代金:7,400円  (20円)

 5:農牛馬目録
   1:耕馬牡:19頭 代金:570円  (30円)
   2:耕牛牡:3頭 代金:150円  (50円)
   3:駄馬牡:131頭 代金:2,620円  (20円)

 6:牧豚目録
    牧豚:20頭
      牡:12頭 代金:72円  (6円)
      牝:8頭 代金40円  (5円)

 7:その他目録
    1:新冠牧馬場農業機械目録     合計70種
    2:新冠牧馬場農業備品目録     合計96種
    3:新冠牧馬場農業馬具目録      合計14種
    4:乗馬具並びに種馬付属品目録   合計:44種
    5:消防機械目録             合計:5種
    6:鍛冶道具目録             合計:11種
    7:大工道具目録             合計18種
    8:薬品目録                合計:94種
    9:爪髪道具目録             合計:6種
    10:用度品目録              合計:6種
    11:書籍目録                合計:66冊    

  以上の様に、エドウィン・ダンは明治6年(1874)に開拓使顧問兼御雇教師頭取ホーレス・ケプロンの部下として、アメリカ・オハイオ州から農業教師として来日し、明治8年(1876)から開拓使に在職中は、唯一人の獣医師として自ら診察・治療に当たり、農業現術生徒を指導し、短い年月で北海道の馬匹改良の一大事業をなしえたのであり、彼失くして現在の北海道の馬産は有り得なかったと考える。



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  明治10年(1878)エドウィン・ダンの指導で札幌育種場内に楕円形競馬場が完成し、同11年(1879)より使用し、同14年(1882)には再整備を実施し、天覧の近代競馬が行われた。


  ※当初、彼は1年契約であったが延長され、日本人女性と結婚し、83歳で亡くなった。
   ひ孫にあたる方2人が音楽家として活躍されている。



      引用          御雇教師 エドウィン・ダン   北海道の馬事の礎を築く
                   日本史小典



          鈴木純夫                  
           
  


 

 

 

Ⅶ:北海道和種馬ー心臓移植のための募金にご協力お願いします。

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 ブログを読んで下さっている方から依頼が有りましたので、掲載させて頂きす。

金澤佳代ちゃん:平成25年9月30日生まれ(千葉県流山市)、帝王切開で出産(2521g)
           出産後、総肺静脈還流異常症の根治手術

           「心臓移植に踏み切るか、佳代の天命とうけいれるのか」の選択
           平成27年1月、アメリカコロンビア大学病院
           病名、拘束型心筋症

            心臓移植手術費用:2億4500万円

           かよちゃんを救う会

                 http://kayo-chan.com/



                                                     鈴木純夫

Ⅶ:北海道和種馬ー平成26年度日本在来馬数

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1:北海道和種馬                                                                
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  平成26年度:1,226頭      対昨年比:△30頭       在来馬比率約66%
   仔馬の出生頭数不明
  課題:イ、生産者の高齢化による飼育者の減少。
      ロ、生産しても価額が見合わない。①体形
                            ②特性ー遺伝として、唯一側対歩が出来る。
            両方を理解できる買い手と、それを意識して生産が行われれていると必ず しも言えない。
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  共進会の様子

 根室馬事振興協議会では、9月に夕張郡長沼町で行われる全道の北海道和種馬共進会に向け、6月12日に予選会として共進会を行うが、根室管内に北海道和種馬が約100頭いても、出場してくる馬は多くて7~8頭である。(北海道和種馬の生産は道南が最大規模であるが、共進会に出場する馬は、全道大会でも約30頭位)


2:木曽馬
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 平成26年度:143頭   対昨年比:△13頭        在来馬比率:約7.7%
        仔馬出産数:4頭
 頭数減の原因:死亡馬・廃用馬が例年よりも多く、生産者の高齢化による生産農家の減少・御嶽山                 の噴火による施設閉鎖で飼育戸数が減少した。
 また、平成25年度の種付け数から算出する受胎率は33%と昨年よりも下がっている。受胎後に流産などをした馬が3頭おり、生産率は20%となる。産子が誕生し登録に至る生産率については16%と流産の他にも生後の発育不良(育児放棄を含む)などが数件確認されている。(平成26年度木曽馬報告ー木曽馬保存会事務局)


3:野間馬
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  平成26年度数:49頭    対昨年比:△1頭      在来馬比率:約2.6%
           仔馬出産数:3頭

    東京恩上野動物園にいた1頭が死亡。


4:対州馬

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  平成26年度数:35頭      対昨年比:+4頭        在来馬比率:約1.9%
          仔馬出産数:4頭

  韓国からの観光客が昨年度は約17万人と、1昨年より10万人増加したが、目保呂ダム馬事公園への来客には繋がっていない。(対馬市の人口は4万人に満たない)
  馬事公園には女性のインストラクター1名(対馬市の準職員)と、26年度からパートの若い男性2名体制になった。
 本島からの客誘致を模索している。


5:御崎馬
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  平成26年度数:88頭      対昨年比:△3頭       在来馬比率:約4.8%
         仔馬出産数:14頭(4頭死亡)

  昭和28年に国の天然記念物に指定。

 都井岬は550haあり、馬達が牧草を食む小松ヶ丘・扇山は90haで再野生化し、ハーレムを作り自由に暮らしている。
 この2ヶ所の牧草地の生態系が無くして御崎馬は語れない。
 串間市文化財専門員の方の努力により、小学生~大学生までが「都井岬と馬に触れる」を教育の一貫として捉えている。


6;トカラ馬
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  保存会が多忙で、26年度の総会が開かれていないため昨年度数を掲載する。
   平成25年度:121頭     (殆んど数に変わりは無い様である)   在来馬比率:約6.6%

  鹿児島大学入来牧場・開聞岳山麓・トカラ列島(中島)の3ヶ所で放牧。


7:宮古馬
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    平成26年度数:45頭    対昨年比:+5頭         在来馬比率:約2.4%
         仔馬出産数:5頭

   日本在来馬保存会全国会議概要(平成19年・31頭)で、平成24年までに50頭を目標に掲げた。平成29年度に、遅ればせながら目標達成出来るであろう。


8:与那国馬
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    平成26年度数:130頭    対昨年比:0頭     在来馬比率:約7%
          仔馬出産数:20頭

 NPO法人「与那国馬ふれあい広場」が、「日曜日、島民無料体験乗馬会」・比川小学校乗馬クラブ無料支援を行っている。
 また、上記法人の行う有料体験乗馬が人気を得ている。
   イ:海馬遊び(海の中で子供が馬に乗り、親が尻尾に捕まって泳ぐ)
   ロ:夜空の星を見ながらのトレッキング。

  島内二ヶ所に放牧されており、東崎(あがりざき)牧場の与那国馬の説明書きに「日本在来馬で最も小さい」となっている箇所を直すよう2年前に指摘したが、未だに直されていないのは残念である 。

 ※与那国馬の取材でお世話になった「与那国馬ふれあい広場」の前場長・朝倉隆介氏が昨年独立し、石垣市で与那国馬体験乗馬が出来る「石垣島馬広場」を6月10日に開業されました。
 既に梅雨も明け、野原や海岸でのトレッキングが楽しめます。
 

    HP  「石垣I島馬広場」
  牧場住所:石垣市字平久保平久保牧355番地
       TEL:080-6485-5979
        E-mail     ishigakijimaumahiroba@yahoo.co.jp


 

 平成16年度の総数は、2,294頭であったが平成23年度の総数は、1,721頭まで減少し平成24年度に1,974頭に増加したが、平成25年度総数、1,875頭と再び減少に転じた。
 平成26年度総数:1,837頭とさらに38頭減少した。
 なかでも木曽馬の減少幅の大きさは今後も憂慮すべき問題になりはしまいか。

   協力                     各在来馬保存会
                           北海道大学牧場
                           紅葉台木曽馬牧場
                           荷川取牧場
                           NPO法人与那国馬ふれあい広場
                           根室馬事振興協議会

  引用                    ホースメイト2005年11月号ー北海道和種馬、地道に活用の道を模索
                          日本馬事協会・平成24年度事業報告


                                                   2015年6月8日最終確認    


             鈴木純夫


  追伸
  
  前回掲載しました心臓移植手術「かよちゃんを救う会」のHPのアドレスを誤って掲載しました。

   正    http://kayo-chan.com/


    ご協力の程よろしくお願いいたします。



 


Ⅶ:北海道和種馬ー駄載力テスト

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   木村義男さんの荷駄隊列  
 さき馬(1)は牡、てもと馬(2)・なか馬(3)・すてさき馬(4)・すて馬(5)は妊娠した牝、最後尾は今年生ま       れた仔馬

 前回掲載したように、北海道和種馬(今回掲載分は通称名のドサンコと呼ぶ)の特性の一つに、ダンヅケと言われる「駄載運搬方法」がある。
 平成5年10月16日に北海道和種馬保存会道南支部が、ドサンコの持久力調査として「駄載テスト」を行い、その調査実施をされた「北海道和種馬駄載運搬調査実施委員長・長田光弘氏」の報告を紹介する。

 「道南地方では個々の馬の単独の駄載運搬ではなく、昔ながらの馬を連ねての駄載運搬にて調査実施した。そもそもドサンコの体型は、いわゆる前かちであってこのことは駄載に好都合とされているとある。」
 (前かちとは前肢骨が強靭であることを表現しているものと思われる。)

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  日本在来馬の骨格について、植月学著「出土馬遺体研究の現状」を引用する
 「鎌倉市由比ヶ浜南遺跡では中世武士の馬について興味深い分析結果が得られている。鵜澤・本郷(2006)によれば本遺跡の1,110遺構に埋葬された馬の四肢骨プロポーションは、現生在来馬とは異なり前腕の骨が長い傾向にあった。
 これはより速く走るのに適した体型であり、主に山間部や狭く急峻な地形で生き残ってきた現生在来馬とは異なった特徴の馬がかつては存在した可能性が論じられた。
 鵜澤らが示した由比ヶ浜南遺跡のその他の馬の平均も、木曽馬の四肢骨のプロポーションとはかなり異なる。
 筆者が最近調査したモンゴル帝国時代の馬には、木曽馬と由比ヶ浜のそれぞれに類似したプロポーションを持つ個体が存在した。(図1)
 前者は橈骨・中手骨・中足骨など四肢骨の遠位部の骨が相対的に短い。木曽馬との類似性からは、傾斜地での歩行に適していたと推測される。
 後者はアラブ馬とも近く、走行適応型との想定に合致する。
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         (図1)

 日本在来馬のルーツとされる蒙古馬の例から、中世の日本においても多様なプロポーションの馬がいたと予想される。山国・甲斐の武田氏館跡に丁寧に埋葬されていた軍馬と目される個体は、復元体高が約126㎝と小形であった。(妹尾・鈴木2000) (図1)に示したプロポーションは、先のどちらとも異なるが、特に末端の中手・中足骨が短く、由比ヶ浜の1,110遺構とは逆の傾向にあるのは興味深い。走行よりも山越えの遠征に力を発揮して武田の軍事力の源泉となっていたのかもしれない。ただ、中世馬のプロポーションの詳細な研究はまだ少なく、今後の研究に俟つ部分が大きい。」とある。

 話をダンヅケに戻そう
 「今回のダンヅケは当地域の超一流と言われる、木村義男氏・土谷進氏にお願いし、また貴重な意見によって5頭一組の駄載隊列を二組作って実施した。各組隊列のさき馬に乗る御者はハミのような物は用いず、しかも一本手綱である。
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   棒締頭絡(ウムイ・ウルグイとも呼ばれる)
 
 駄載重を馬体重の三分の一とした理由は、戦時中から軍陣獣医学の分野で適用されていたものを採用して無理のかからないものとし、距離は10㎞とした。

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  (図2)

  ダンヅケの場合の不可欠な要点として挙げられるのは、各馬の荷駄作業であって短時間にしかも荷崩れのしないやり方が要求されるが、お二人の行動力と距離を充分考慮に入れて平均的に隊列を進めて行く熟達ぶりは、馬自体の持久力もさることながら御者たちの優れた経験的熟練を無視することは出来ない。
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    荷駄作業の様子

 馬の歩様は終始側対歩であった。(左右の揺れが、斜対歩に比べ少ないためr荷崩れがしにくい)
 今回の調査は馬体重・駄載重の測定から、2.5㎞ごとの所要時間の調査・馬の事前事後の検診等々きわめて多忙であったが、地元保存協会支部の会員達が多数参集して盛大に実施出来た。その会員達の熱意からみても、今後ダンヅケ等に関する後継者問題は案外期待出来る様にも思われる。」と結んでおられる。

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 (図2)から、5頭の馬で木村義男氏は総重量543㎏・土谷進氏は625㎏を一度に運搬したことがわかるが、昨年取材で北海道行ったとき「昔の言い伝えでは1頭に5俵(300㎏)を背負わして10㎞運んだこともあった」と聞いた事を思い出した。現在なら動物虐待で訴えられかねない。

 飼養家の高齢化に伴いダンヅケの文化が廃れないよう、3年前に若い飼養家が同じようなテストを行ったとの情報も得ている。19年前の方々の意志が受け継がれていたのだ。

 ダンヅケの技術を使い「災害救助馬」の育成を考えたが、馬は蹄が命であるため瓦礫が散乱している場所には残念ながら進入することは出来ないし、移動に経費が掛かる・病原菌の心配があり自由に移動させられない等々安直には発言出来ない。


     引用          ドサンコの駄載力テスト  長内光弘   ホースメイトvol.11
                  出土馬遺体研究の現状  植月 学氏    BIOSTORY vol.21
                  新アルトメイトブック馬
                  「日本人と馬」 知識は馬に乗って


    ※1: 私の友人の牧場「石垣島馬広場」のHPもご覧下さい。

    ※2: 「かよちゃんを救う会」の募金が、277,108,700円集まりました。有り難うございました。
         (平成27年7月2日現在)
                          http://kayo-chan.com/


    鈴木純夫

 

Ⅶ:北海道和種ー甲斐国における古代の牧

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  上:本稿に関する遺跡図
  下:現在の地図

 宮間田遺跡から「牧」と記された墨書土器が出土した。しかし馬具などの発見はない。釜無川右岸河岸段丘  上にあり、縄文時代及び平安・鎌倉時代にかけての遺構・遺物が数多く発掘され、なかでも漁労具用土錘・鍛冶炉遺構・墨書土器の出土品は学術的にも重要な意義を持つ遺跡である。
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  馬匹の生産と中央との馬の関わりが、牧経営に何らかの形で関与していたと思われる

 平安時代、朝廷直轄の牧を御牧(みまき)と言い、甲斐国には「真衣野牧ーまきのまき」(武川町牧原周辺)・「柏前牧ーかしわざきまき」(推定地が断定できていない)・「穂坂牧ーほさかまき」(韮崎市穂坂周辺)の3牧が置かれていた。
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 穂坂牧は茅ヶ岳山麓・真衣野牧は釜無川右岸・柏前牧は比定地が確定していないが、八ヶ岳山麓に置かれていたと推測されている。
 牧が置かれた巨摩郡北西部(現在の北杜市・韮崎市あたり)は高燥寒冷なため、農地開発が遅れ人口も希薄であり、広大な放牧地が確保しやすかったのであろう。

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 真衣野牧・柏前牧で15頭づつ、穂坂牧で30頭合計60頭を毎年貢馬しなければならなかった。これだけの良馬を生産するには、1,700頭もの馬が飼われていたと言われている。
 御牧では毎年秋に国司などの立会のもと、焼印による牧馬の確認・毛色・年齢などの登録が行われた。真衣野牧・柏前牧では「官」、穂坂牧は「栗」の字の焼印が用いられた。
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  梅之木遺跡から出土された焼印であるが、「字」の確認は出来ない(鉄製)

 「馬」財産・軍事力と言う2面性があった。有力な貴族は牧を私的に経営し、「馬」を贈与品とすることで勢力の拡大に努めた。
 軍事力としては、後の地域武士団の形成に深く関わる事になり、「小笠原牧」・「逸見牧」などが知られる所である。
 平成25年秋、上原遺跡で騎乗に不可欠な「轡」が出土した。
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    鉄製の轡

 これらの発見により茅ヶ岳西麓の遺跡群が、小笠原牧の運営に従事した集団の居住地であった可能性が濃厚になった。飼育頭数は不明であるが、隣接する穂坂牧では800頭を超える牧馬が放牧されていたと推測される。

 茅ヶ岳西麓の集落は、9世紀に入ると塩川沿いの平坦地に出現し、やや遅れて9世紀半ば頃に梅之木遺跡などの牧集落が成立する。そして入植してきた人々は四半世紀をかけて未開発の広大な森林を伐採して焼き払い、農地・牧草地を作り出し集落や放牧施設を建設した。馬飼育の技術者や鍛冶職人の誘致と塩川の砂鉄などの資源開発・木炭生産も合わせて行ったと思われる。
 しかし、10世紀までは小笠原牧の集落群は安定的に営まれたが、11世紀になると急減してしまう。
 同じ様に、御牧からの貢馬の数も減少した。
 平安時代後期、有力な貴族や寺社が所有する荘園が拡大し、地方では中央貴族にと繋がっていた在地豪族が成長して「牧」を私的に濫用したため、朝廷による牧経営が急速に衰退したものだと考えられる。


  引用                           宮間田遺跡
                                甲斐の黒駒ー歴史を動かした馬たちー
                                北杜市考古資料館
                                                                   文献から見た古代牧馬の飼育形態  


     鈴木純夫




  

Ⅶ:北海道和種馬ー「稲荷山古墳」と「将軍山古墳」

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  将軍山古墳「騎馬武人」(復元)

 前回は「古代牧」の形成について掲載しましたが、今回は5世紀後半に築造された埼玉県の「稲荷山古墳」と6世紀後半に築造された「将軍山古墳」から出土された「代表的な遺物」を紹介します。

稲荷山古墳
 国宝の金錯銘鉄剣が出土した、墳丘全長120mの前方後円墳である。
 前方部は昭和12年に土取りのために失われてしまったが、復元工事を行い平成16年3月築造時の姿を取り戻した。
 発掘調査の結果、周囲に長方形の堀が二重に巡り、墳丘の西側と中堤の2ヶ所に「造り出し」と呼ばれる広場があった事がわかった。
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 この古墳の偉大さは出土した鉄剣の銘文の発見であり、日本古代史を考える上ではまさに「世紀の大発見」と言うことが出来る。
                                                                      
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銘文を読む





































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銘文の現代解釈





































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鉄剣表



































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鉄剣裏





































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 古墳時代の刀剣類に銘文が刻まれているものは、現在のところ全国で7点ある。このうち東大寺古墳出土太刀と石上神宮七支刀はそれぞれ後漢と百済で作られたものである。
 象嵌銘のある刀剣の中でも文字数は、上記図で分かる様に稲荷山古墳の115文字は抜きんでて多い数字である。
 製作年代は471年と想定されるが、年代が押さえられる資料としては日本最古の資料と言える。
 そして重要なのは銘文の内容である。辛亥年(471年)は古事記・日本書紀が完成する250年も前にあたり、古代国家成立に向けての激動期である5世紀の事を記した同時代資料として不動の価値を持っている。
            (第21代雄略天皇期の物であろう


将軍山古墳
 この古墳は「稲荷山古墳」の東隣にある全長90mの前方後円墳である。
 明治27年(1894)に地元の人々によって後円部に露出していた石室石材の抜き取りが行われた際に豊富な遺物が出土し、現在では東京国立博物館・東京大学・当館等に分散して収蔵されている。
 平成3年度から復元整備事業を開始し平成9年度に完了した。
 横穴式石室を採用したためか、前方部に比べて後円部が小さく造られている。
 墳丘に比べ堀幅が広く非常に大きな二重堀となっており、「稲荷山古墳」と100年近くの時期差あるが、方形二重堀や中堤造り出し・墳丘造り出しなどは驚くほど似ている。
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 馬の冑と旗竿金具(蛇行状鉄器)が出土している。(馬具・人間の甲冑部分が多数出土)
 これらは重装騎兵の装備であり、高句麗の壁面古墳にも馬に冑と甲をつけて鞍の後には旗を差した騎馬に乗る兵士が描かれている。重装騎兵を用いる戦法が発達しなかった日本列島では殆んど出土しない物で、馬冑は他に2例、旗竿金具は他に7例あるのみである。
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    4枚以上の鉄板を組み合わせて作られており、おそらく朝鮮半島で作られた物であろう

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轡(丸型)
















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鐙(鉄製)

















馬具の一部
















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冑の庇















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人間の鎧の一部















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その他の出土物




































 家畜馬が大阪府四条畷市辺りに来たのが4世紀後半~5世紀頃だと言われているにも関わらず、約500㎞も離れた地に僅か100年後に「騎馬武人」が出現したことは、「馬」「馬具」「武具」がヤマト政権の畿内と東国がいわゆる東山道を介して、既に繋がっていたことが間違いない証拠になり得るであろう。
 また、前方後円墳の規模からヤマト政権と繋がる、かなりの権力者がいたであろことが推測できる。
 475年に百済の第一次滅亡と混乱によって百済をはじめ加耶諸地域等から多くの渡来人が列島へ流入した。
 この時期に様々な改革と新技術導入に積極的であったため、在来倭人が欲する馬匹生産や製鉄技術を持った渡来人は相応の受け、 朝鮮半島と日本列島双方の事情から渡来人が列島に移住し、東日本にも配置されたのであろう。


       引用                            ガイドブックさきたま
                                     東国の渡来人ー5世紀後半を中心にしてー
       参考文献                        上代日本における乗馬の風習
                                      古墳時代における畿内と東国


       鈴木純夫                  






































































































Ⅶ:北海道和種馬ー利活用

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           平成21年(2009)9月恵庭流鏑馬大会

 北海道和種馬(通称:どさんこ)の能力として以前に、「駄載力テスト」として掲載したが今回は以下4項目を取り上げる。

1:流鏑馬
 平成14年(2002)7月7日帯広市芽室町、「剣山道産子牧場」において「紅葉台木曽馬牧場代表・菊地幸雄氏」率いる「巴組」のエキシビションの後、「第1回流鏑馬競技大会」が開かれて以来、今や全道各地で「流鏑馬競技大会」が開かれている。
 本年6月21日には、「どさんこフェスタin函館」で流鏑馬競技「日本一決定戦」が行われるまでになった。

 2:トレッキング
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 乗用馬として、山野を駆け巡る「トレッキング」としてその魅力を発揮している。
 初心者からベテランまでが、「オールランドに対応出来る馬」としての価値は高く評価されている。

 
 3:試情馬(当て馬)  
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 競争馬の生産農家では試情馬として「北海道和種馬」を使うメリットとして、大きく・神経質で・危険なサラブレットよりも飼養に手間がかからず、扱いやすい体格であることを挙げている。


 4:食肉用
 馬肉は、低カロリー・低脂肪・低コレステロール・低飽和脂肪酸・高たんぱく・カルシュウムが豊富で、牛肉と違い「生食」が許されているなど、とても優れた食材と言われている。中でも「北海道和種馬」は、柔らかく霜降りが入り易く「馬刺し」に最適と評価されているが、1回の消費量が限定されているため我々が口にするのは、やはり輸入馬に占められていると言わざるを得ない。
 食用馬の輸入は、平成18年(2006)に5,908頭が最高で、平成24年(2012)に2,705頭と下がっている。
 輸入国はカナダが8割でそのほとんどを占め、次いでアメリカ・ベルギー・イギリス・ドイツとなっている。
 また、輸入馬の半数は九州の育産家に引き取られている。



 引用         北海道和種馬 その成立と現在  近藤誠司氏 日本ウマ科学会 ヒポファイルNO.48
             長崎税関調査部 調査統計課
             函館新聞

 協力         紅葉台木曽馬牧場


             鈴木純夫
 

Ⅶ:北海道和種馬ー東北歴史博物館①

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  宮城県仙台市の「藤田新田遺跡」から発掘された「5世紀」の木製鐙

 藤田新田遺跡は、JR長町駅の東方約10.5㎞に位置し、標高1m前後の浜堤列と後背湿地に立地する。
 古墳時代と平安時代を中心とする集落遺跡で、浜堤列を居住域(竪穴住居・土坑・溝)とし前期には方形周溝墓をともない、平安時代では、浜堤列を居住域・後背湿地を水田域とする土地利用が行われた。

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 これまでの掲載で家畜された「馬」の移入は、一貫して4世紀後半~5世紀頃朝鮮半島から「東シナ海ー九州ー瀬戸内海ー河内湖畔(現在の大阪府四条畷市あたり)」とし、「馬」の放牧に適した「東国」へと進んで行ったと紹介してきた。
 しかし、10月2日に宮城県多賀城市にある「東北歴史博物館」を訪れ、宮城県仙台市の地に「5世紀」の木製鐙を見る事が出来た。(片方だけで「馬」に乗る時にだけ使用したと思われる)
 「鐙」があると言う事は、河内湖畔以外にも既にその他の地に「馬」の移入がなされていたと言わざるを得ないことになる。

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           平成7年に富山県が作った逆さ地図

 上記の地図から分かる様に、「日本海」はユーラシア大陸と日本国との間に於いて「内海」の様を呈しているいるように思われる。(4~5世紀はもっと「日本海」は狭かったか?)

 北朝鮮による日本人拉致が「日本海岸」沿いに集中していることを思えば、大陸の地から「日本海」を縦断して「日本海岸沿いの地」、「点」として「馬」の移入がなされ、その地とか河川を上流したりして「馬の放牧」が行われた事を、検めて考察しなければならない。


   協力                 東北歴史博物館



        鈴木純夫

Ⅶ:北海道和種馬ー東北歴史博物館②

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       5世紀中期吉ノ内遺跡出土の轡

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        5世紀中期吉ノ内遺跡出土の馬鐸

 吉ノ内遺跡は、宮城県角田市横倉の丘陵上にある「前方後円墳」で、全長70m・前方部25m高さ3m・後円部直径40m高さ6.5m。
 捩文鏡・櫛・鹿角製刀子・袋状柄鉄斧・曲刃鎌などが出土されている。


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      9世紀多賀城市山王遺跡から出土した木簡 

 多賀城市の「多賀城」とは、平城京期の第45代聖武天皇が北方の「蝦夷(えみし)」を制圧するための軍事拠点で、神亀元年(724年)按察使(あぜち)・大野東人(おおのあずまんど)が柵として築城したのが始まりである。

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   多賀城碑
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 天平宝字6年は西暦762年で第2期のものであり築地塀に囲まれ、正殿などが整備された政庁である。


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 5世紀の「轡と馬鐸」が出土した角田市は、「木製輪鐙」が出土した仙台市よりもかなり南に位置するが「鉄剣」も出土しており、「騎馬」としての利用を想像してしまう。
 前回に5世紀は「河内」に「家畜馬」が朝鮮半島より移入したばかりであると掲載したが、この時「家畜馬」のみならず「騎馬」として調教された「馬」も同時に移入されたのであろうか。
 しかし、「河内」と「北辺のこの地」は余りにも距離が在り過ぎる。

 多賀城を合わせて掲載したのは、聖武天皇の時代ー平城京ーは南に大宰府を置き、朝廷の意に背く「隼人」の存在があったからである。

 9世紀の「木簡」により、既にこの地に「名馬」がいたことが分かる。


     協力            東北歴史博物館


       鈴木純夫






















































Ⅶ:北海道和種馬ー第2回馬上武芸奉納まつり 競馬(くらべうま)編

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 賀茂神社紋の双葉葵が描かれた旗を流し「くらべ馬ご奉納仕り候」と口上を述べる騎手

 平成27年11月28日(土) 滋賀県近江八幡市加茂町の御猟野乃杜 賀茂神社で晴天のもと、午前の部:流鏑馬・馬上武芸、午後の部:くらべ馬が行われた。
 今回は「くらべ馬」のみについて掲載する。

 近江蒲生郡誌に、寿永3年(1184)5月6日当神社において神馬4頭による7組の走馬(そうめ)があったことが記されており、現在も保存会の手により毎年5月6日に「足伏走馬(あしぶせそうめ)」が行われている。

 紅葉台木曽馬牧場(代表・菊地幸雄氏)主催により昨年に続き、「競技」としての「くらべ馬」を「くらべ馬愛好会」の趣旨に則り、8頭の馬で7番の取り組みを行い優勝を競った。
 「くらべ馬」は、2頭の馬によるマッチレースで、ゴールから見て左側を「左方」・右側を「右方」と呼び、「左方」が赤色系・「右方」が青色系の袍(ほう)を被り、「左方」は赤色の房鞭を左手に・「右方」は紫色の房鞭を右手に持ち、太鼓2打の合図で、オー・オー・オーと声を3度掛け、息を合わせてスタートし、激しい鞭使いと怒声を上げ競い合い、先にゴールした「乗り尻ーのりじり(騎手のこと)」が勝利者となる。

 馬披露目の儀
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 馬場慣らし
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 いよいよ取り組みです。

1番の取り組み 
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  緊張感ある最初のスタート 
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 しかし「左方」の乗り尻の気持ちが強すぎて、馬がバックしてしまい「右方」の勝ち

2番の取り組み
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 見事な両者のスタート
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 激しく競ったが「左方」の勝ち

3番の取り組み
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 「左方」一見冷静なスタート
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 しかし、「ゴール直前で「左方」が差し勝った

4番の取り組み
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 「左方」優勢な形でスタート
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 そのまま「左方」が逃げ切った   (月毛は筆者の愛馬)

準決勝
1番の取り組み
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 決勝戦へ向けて気合の入る両者
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 激しい競い合いの結果「右方」が決勝戦へ

準決勝
2番の取り組み
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 女性同士、気合を入れてスタート
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 「左方」逃げ切り決勝戦へ

いよいよ決勝戦 平成27年の優勝者は?
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 女性同士で今年の優勝を競う「左方」気合の入ったスタートの瞬間!
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  「右方」が負けずとばかり猛然と追い込む!!
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 しかし「左方」が僅かに逃げ切り、平成27年の優勝者に。

 優勝者の鞭に奉行の扇から上布が渡される
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優勝者先導によるウイニングラン
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 今年も無事に「くらべ馬」のご奉納をさせていただくことが出来ました。


           参加者の全体写真
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      中央の奉行役が筆者です。

       引用             近江蒲生郡誌

       協力              御猟野乃杜 賀茂神社
                        近江上布伝統産業会館
                        甲州和式馬術探求会

       写真提供           林 佳夫氏


         鈴木純夫



                                                         


Ⅶ:北海道和種馬ー馬上武芸奉納まつり 馬上武芸編

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 1:イ、 扇舞を先導に、2頭が羽衣と呼ばれる薄絹を紅葉の枝に巻いて流す「速足」での馬上舞
 (和式馬術においては、日本伝統の乗り方である「立ち乗り」の技術が求められる)

 平成27年11月28日(土) 紅葉台木曽馬牧場(代表・菊地幸雄氏)主催で、御猟野乃杜 賀茂神社で行われた「馬上武芸奉納まつり」で16種類の馬上武芸をご奉納した。

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 1:ロ、神楽鈴を高く掲げ振り鳴らす「速足」の馬上舞
 神楽鈴の音は穢れを払う力があるとされ、その音が馬場を清めている。

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 2、流鏑馬神事射手(神様に流鏑馬をご奉納する射手)3人による「素馳-すばせ」(馬と射手が馬場に慣れるために馬場を一走する)。
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 1の射手イメージ 5























 2の射手   (馬は筆者の愛馬)
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 3の射手

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3、平騎射、流鏑馬の騎射の手習い。  射手は「弓馬」を始めて僅か6ヶ月ながら見事な騎射姿。将来有望!

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4、願乗り(矢に願い事を託して的を狙い、打ち当てる)  権禰宜から矢を受け取る射手
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4、イ:斜めに弓を構え雅に矢を射る「三日月の型」 「和和式馬術練習生と馬たちの安全を祈願」
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4、ロ:正面に弓を構え雅に矢を射る「半月の型」 「和種馬たちの一層の活躍・繁栄を祈願」
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4、ハ:弓の弦を地面と平行に構え雅に矢を射る「満月の方」 「賀茂神社に関わる皆様に幸せが訪れる事を祈願」

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5、駆足「馬上舞」:優雅な速足の「馬上舞」とは違い、勇壮な「馬上舞」

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6、5色の流し旗、陰陽五行説で言うところの、木・火・土・金・水の五つの要素を表し、古来より神々に奉る様々な儀式の場面で行われていた。
緑ー東方の色なり、木に従う。  黄ー中央の色なり、土に従う。 赤ー南方の色なり、火に従う。
白ー西方の色なり、金に従う。 青ー北方の色なり、土に従う。

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7、追物射:逃げる敵・獲物を追う時の射型で、体を前面に捻る動作をし射る。

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8、押捩:後方より追いかけてくる敵に対応するため、体を柔軟に使い大きく後ろに振り返らせ射る。

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9、「追物射」「押捩」の同時打ち

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10、弓手下:弓手(ゆんで)とは左手を指す言葉で、射手から見て左下の敵・獲物を狙い打ちする。

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11、馬手下:馬手(めて)とは右手を指す言葉で、射手から見て右下の敵・獲物を狙う打ち方であるが、弓を大きく振り上げて馬の首を跨ぎ右側に構えを移し射る。

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12、馬手追物射:射手の右側目線の高さにダイナミックに射る。

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13、長巻(ながまき):大きな刃長の刀「野太刀」を振るい易くするため、柄が刀の半分位いある。そうとうな腕力と馬を乗りこなす力量が求められる高等な馬上武芸である。

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14、長刀:刀よりも広い範囲に攻撃出来るが、その形状と長さゆえ「長巻」と同様、高等な馬上武芸である。(演武者は剣道4段の女性)

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15、長鑓:人が狩りを始めたころより使われ続け、突くことに特化して発達した武器。長いものは6mほどのものがあるが、馬場を考慮し少し短めの鑓を馬上から振り回す最高峰の技術が必要とされるダイナミックな演武である。

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16、連射:3人の射手が大きく弓を掲げ、通常よりも緩やかに弓を引き、矢を放ってからは「弓道」における残心な形をとる妙技。


 協力     御猟野乃杜 賀茂神社
         甲州和式馬術探求会(会長・長谷川ます枝)

 写真提供  林 佳夫氏

















 

Ⅶ:北海道和種馬ー平成28年  謹賀新年

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                       日光東照宮・ご神馬厩舎

          他人の意見は、最後までよく聞き
        自分の考えは、理解してもらえるまで話し
        百聞は一見にしかず。広い気持ちで世間を見る。

                       謹  賀  新  年
 
        皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。

                                        平成28年元旦


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              厩馬図

 厩に見える野放しのサルは室町期頃から「馬の病魔退散」に効アリという、大陸渡来の迷信のもとに飼われており、「馬の守り神」とも言われた。
   (野放しのサルは実際には厩のサル木に繋がれていた)

 厩馬図屏風は繋馬図屏風とも称され、厩舎に繋がれた馬を主題に室町後期から江戸時代初期に相当数が製作された。
 いづれも厩の屋根を水平に、厩舎内は一扇に一頭ずつ馬を配するといった描き方の構図を取っている。
 厩馬は全て牡馬で、当時は去勢が行われていなかったため狂奔防止のため厳重に繋ぎ、蹴傷予防用に隔室で馬房間を仕切り、床は板張りである。
 厩馬図屏風には描かれていないが、実際には糞尿の処理をする番人がおり、城主や家臣にとって厩舎はステイタスシンボルであり、城内や屋敷に人が入る際「最初に目にする」場所に配置されていたと言われている。
 さながら、現代の「セレブな方」の玄関横の車庫に「高級外車が何台も並んでいる」のと同等の感があったのであろう。

 ただ、徳川家康が家臣から「他の武将の厩舎の様に立派なものに作り変えた方が良いのでは」と進言された際、「合戦場においてその様な飼養は出来ぬ」と返答し、建て替えをしていないことからして、これはあくまでも筆者の推測であるが、厩馬図に描かれている馬は「見せるための馬」であって「実戦用の馬」ではなかったのかもしれない。
 

   引用           厩馬図
                 大坪流

   協力           日光東照宮


                                             鈴木純夫



Ⅶ:北海道和種ー日本海沿岸ルート説?

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                      JR小浜線上中駅掲示板

 昨年、東北歴史博物館の展示品に宮城県から5世紀の馬具があり、学説で言われている「朝鮮半島ー九州ー瀬戸内海ー河内」以外を検討証明しなければならない旨を掲載した。
 新潟県・富山県・石川県・福井県の各県立歴史博物館と各埋蔵文化財課に問い合わせたところ、福井県の若狭町歴史文化館に「馬具の展示」があることが分かり、先月取材に応じて頂いた。
 学芸員の方の説明と図録やパンフレットによる古墳の形態・土器類・馬具類・武具類・副装飾類などから、河内を経由せず対馬海流に乗り又は日本海を縦断しこの若狭の地に、馬を連れた渡来人が来た「日本海沿岸ルート説」に迫ってみようと思う。
 (館内の展示品は残念ながらブログへの掲載は固く禁じられたため、写真掲載は韓国の歴史について書かれた書籍から引用する)

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 図録・パンフレットから古墳の形式

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上ノ塚古墳 
(国指定史跡)

若狭地方で最初で最大規模の古墳。
若狭が東アジアの表舞台に登場したことを告げる前方後円墳と言える。




























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西塚古墳
(国指定史跡)

石室からは、金製耳飾・鏡・金銅製帯金具・銀鈴・銅鈴・馬具・冑(かぶと)など多彩な副葬品が発見された



























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中塚古墳
(国指定史跡

この3基の前方後円墳は、いずれも平地に造られ、表面には葺石・埴輪を備えて盾形の周濠がめぐっている。また周濠外周斜面にも葺石を有し格の高さを見せている























 「図説 韓国の歴史」から 館内の展示品と酷似の物

イメージ 10鐙と轡






































イメージ 11金銅製の冠






































イメージ 12短甲と冑(かぶと)





































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                    金製垂飾付耳飾  


 5世紀に、東アジアの文明の中心地「中国」に朝貢した文書から、「倭(日本)の五王」の名前が出てくる。
 「讃・珍・済・興・武」である。 現在該当すると考えられているのは、讃=応神天皇(在位270~310年)・仁徳天皇(在位313~399年)・履中天皇(在位400~405年)、珍=反正天皇(在位406~410年)・仁徳天皇(在位313~399年)、済=允恭天皇(在位412~453年)、興=安康天皇(在位453~456年)、武=雄略天皇(在位456~479年)の7人の天皇であり、413~478年の間に少なくとも9回にわたり中国南朝に使いさせ、貢物を献じていた。
 その目的は当時興隆しつつあった高句麗に対し、朝鮮半島における倭(日本)の国際的地位を高からしめ、確立するためであった

 次回の掲載は、朝鮮を調べずして日本を考える事が出来ないと考え、「朝鮮」の歴史について 「図説 韓国の歴史」から掲載する。


  引用                            若狭町歴史文化館「常設展示図録」・パンフレット
                                 図説 韓国の歴史
                                 日本史小典
                                 


              鈴木純夫

    

Ⅶ:北海道和種馬ー朝鮮の歴史から①

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  白頭山 朝鮮半島の北端にある標高2,744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、檀君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。


 朝鮮半島にいつから人類が住んでいたか明らかではないが、そこに居住していた人々が旧石器時代・新石器時代を経たことは確かである。朝鮮半島の代表的な旧石器時代遺跡は約50万年前まで遡るものと推測されている。人々は洞窟や岩陰、川端に集団で居住し狩猟と植物採取をして生活していたと思われる。
 紀元前8,000年頃から新石器時代が始まる。旧石器は石を打ち割って作ったものであるが、新石器は表面を磨いて作ったものである。新石器時代の重要な特徴として挙げられるのは磨製石器と櫛目文土器(櫛で刷いたような文様ある底のとがった土器)である。

イメージ 2後期旧石器時代の遺跡から出土した。九州の後期旧石器特有の「剥片尖頭器」や西北九州の細石核との関連が注目される。





























イメージ 3尖底で、「トチの美形」を呈し、口縁に短斜線文帯、胴部に魚骨文風の平行屈折文がある典型的な櫛目文土器































 この櫛目文土器は紀元前4,000~3,000年頃に出現して広範囲に拡散し、主に川辺や海辺で数多く発見されている。新石器時代の人々は主に川辺や海辺に竪穴式住居を作って狩猟と漁労を行い、後期になると基礎的な農耕を行っていた。農耕が発達し始めると新石器人はたちは居住地を主に丘陵地帯に移した。後期櫛目文土器の底が平らになったことが、このことを物語っている。

イメージ 4円形または隅丸方形の新石器時代の竪穴阿住居。床面中央の河原石で炉が設けられ、柱穴がみられるところから屋根が円錐形の土幕形式のものである。



























 
 穀物の栽培は紀元前2,000年頃から始まったものと思われ、アワ・キビ・ヒエなどが主な農作物であった。紀元前10世紀頃からは一部の地域ででは稲作も行われていた。

イメージ 5炭化米
アワ・キビなど5種類の雑穀とともにジャポニカ種が出土した。

































 この当時の社会は、親子関係を中心とする家族が集まって集団を形成する氏族社会であったと考えられる。このような氏族が新石器時代の基本的な社会単位となり、多くの氏族が連結して部族を形成していたものと思われる。
 稲作が始まった紀元前10世紀頃からは青銅器時代が始まった。この時期の特徴として挙げられる遺物が琵琶形銅剣と無紋土器である。青銅器時代にも農機具はやはり石器であったが、多様な用途の農機具が作られていた。農作では雑穀だけでなく、稲作も始まって生産力が大きく成長した。住居は地上に穴を掘って作った竪穴式であったが深さが浅くなって地上家屋に近くなった。
 また、この当時には巨大な自然石を利用した支石墓や石棺墓などの墓が作られていた。銅剣や巨大な支石墓の中には大きなものは重さが数十トンに達するものもあり、多くの人々を使って巨大な石を動かすことのできる強力な権力を持った勢力が、このころに成立していたことを裏づけている。
                                                                                                                                                            
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 農耕の始まりとともに原始共同体関係が解体され、生産物と生産道具を独占的に所有する支配者が登場した。こうした支配者は土城や木柵で城塞を造り、周辺の部族や氏族を支配するようになったと思われる。この初期の「国家」を「城邑国家」と呼んでいる。このような「城邑国家」として最も早く歴史に登場してくるのが「古朝鮮」である。「古朝鮮」は紀元前2,333年に朝鮮民族の始祖とされる「檀君王倹(だんぐんわんごむ)」が建国した「檀君朝鮮」、中国の殷の箕子(みじゃ)が建国したとされる「箕子朝鮮」、中国の燕から亡命した衛満(ういまん)が建国した「衛満朝鮮」までの三王朝を指す。
                                                                      
                                                                                                                                  
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 しかし最初の国とされる「檀君朝鮮」は現在では史実というより、神話との見方が一般的で、「史記」など中国の歴史書に登場する初期の朝鮮半島の王朝は「箕子朝鮮」と「衛満朝鮮」である。「箕子朝鮮」の詳しい成立年代は不明だが、「衛満朝鮮」は紀元前195年頃に成立し、紀元前108年に中国の「前漢」に滅ぼされるまで実在した国家である。
 紀元前3~1世紀にかけての中国大陸では「秦」が滅び、「前漢」が中国大陸を支配して周辺諸国との間で君臣関係が結ばれ、安定した関係が保たれていた。
 紀元前195年、「燕」の武将だった衛満(ういまん)は、「燕」から1,000人余りの人々を引き連れて朝鮮半島に逃れ、「衛満朝鮮」を成立させた。衛氏朝鮮は「前漢」との関係改善に努めて「前漢」の外臣となるものの、真番(ちんぽん)や沃沮(おくじょ)など周辺諸国を服属させて国土を拡大していき、外臣であるにもかかわらず、一度も「前漢」の「武帝」の呼び出しに応じなかった。

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 こうした衛氏朝鮮の態度は「武帝」の逆鱗に触れ、紀元前108年に滅ぼされてしまう。その後、「前漢」は「楽浪郡(なんなんぐん)」など四郡を設置して、朝鮮半島の直接支配に乗り出した。
 紀元前1世紀頃になり、「前漢」の国内が乱れて半島内での支配力が弱まると、古朝鮮の旧領民によって朝鮮半島の北方には扶余(ぷよ)、高句麗(こぐりょ)、東濊(とんいえ)、沃沮(おくじょ)などが、南方には馬韓(まはん)、辰韓(ちなん)、弁韓(ぴょなん)、伽耶(かや)などの小国の連合体が興る。北方の高句麗は、中国の勢力と対峙しながら次第に朝鮮半島へと領土を広げ、紀元313年には「前漢」が設置した「楽浪郡」と「帯方郡」などを滅ぼし、大同江流域にまで領土を広げた。
 南部においては、「馬韓」の中の「伯済国(ぺくちぇぐく)が紀元3~4世紀にかけて漢江流域の小国を統合、後に「百済(ぺくちぇ)となった。一方、紀元4世紀後半には「辰韓」の中の「斯蘆国(さろぐ)」が慶州地方を中心に小国を統合して、後に「新羅(しるら)」となり、さらに朝鮮半島南部には伽耶連盟体が生まれ、「高句麗 」、「百済」、「新羅」、「伽耶」の4国がそれぞれ覇権を争うようになる。

  上記、4国については「朝鮮の歴史から②」で掲載する。



  引用                      韓国の歴史
                           図説 韓国の歴史
                           愛知学院大学「朝鮮史」講義より



         鈴木純夫                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

Ⅶ:北海道和種馬ー2016年石和八幡宮流鏑馬神事奉納」

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 2016年3月27日に、山梨県笛吹市の笛吹川河川敷にて、「2016年石和八幡宮流鏑馬神事奉納」が「甲州和式馬術探求会」の「甲斐駒流鏑馬」にて行われました。
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 河川敷に設けられた神棚まで行進行列

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 神事

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 蟇目放射の儀 矢の先に鳴鏑(なりかぶら)を付け、放った時のヒューと言う音で神様に「流鏑馬」の始まりを告げる

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 口上流し旗 「流鏑馬奉納仕り候」

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 馬上舞(速足) 走路の安全を祈願

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 流鏑馬神事(三つの的を射る) 一の射手
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 二の射手
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 三の射手

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 平騎射(弓手横ーゆんでよこ) 一の射手
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 二の射手

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 五色の流し旗

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 追物射(おものい) 左前方の的を射る


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 蟇目(ひきめ) 三人の射手が同じ所作にて射る(三色の麻生地襷を掛けている

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 鑓無双(やりむそう) 走路の埒外に置かれた巻き藁目がけて「鑓を投げる」初めての演武、見事に的中し巻き藁が倒れた

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 駆け足による馬上舞

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 先導付きの平騎射(初心者が速足で騎射)

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 弓手下(ゆんでした) 射手から見て左下の的を射る 一の射手
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 二の射手

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 一人の射手による「追物射(おものい)➡押捩(おしもじり)」 左前方の的と後方の的を射る

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 二人の射手による「追物射➡押捩」の同時打ち

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 追物射

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 馬手(めて) 馬の首を跨ぎ、右下の的を射る 一の射手
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 二の射手

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 長鑓の演武

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 馬手追物射(めておものい) 馬の首を跨ぎ、右手前方の的を射る 一の射手
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 二の射手

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 「石和八幡宮」に流鏑馬奉納が滞り無く行われ、神職・氏子総代・演武者・スタッフの全体写真


    協力                石和八幡宮
                       紅葉台木曽馬牧場
                       甲州和式馬術探求会
                                                 近江上布伝統産業会館

   写真提供              林 佳夫氏


                       鈴木純夫

Ⅶ:北海道和種馬ー高句麗①

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 高句麗の建国は、夫余(ぷよ)の王族で育った朱蒙(ちゅもん)が困難を克服して南方に出て、卒本(なよるほん)に新しい国を建てるまでの過程を伝える説話からうかがい知れる。朱蒙説話では、前二世紀、中国の東北に位置する貆族(めくぞく)の国家であった北夫余(ぷくぷよ)で起こっていた支配層間の対立と分裂の様子が語られている。この時、夫余の王室に反対して対立したのが朱蒙であり、朱蒙は自分の部下を率いて南方に移動して国を建てた。
 高句麗は、始祖の東明王(とんみょんわん=朱蒙)の時から沸流国(びりゅうこく)と荇人国(はんいんこく)、北沃沮(ぷこたちょ)などを武力で征服し、鮮卑族(せんぴぞく)と靺鞨族(まっかつぞく)も退けた。続いて蓋馬国(かまこく)、句茶国(くだこく)なども併合して領土を広げて行った。高句麗の征服事業は、一世紀末、太祖王(てじょわん)の時代にいたり、いっそう活発になり、鴨緑江(こうりょうこう)、佟佳江(とうかこう)流域の諸小国を完全に支配した。東方で北沃沮を征伐し、南で清川江(なんちょんこう)上流まで進出した。こうして高句麗は、これらの国から東海岸の豊富な物資を貢衲として受け取ることができ、中国との戦争でも後方基地を確保した。
 太祖王の時代には、ついに漢の遼東郡と玄莵郡を攻撃しはじめた。高句麗は遼東地方の六県を奪う成果をあげ、玄莵郡も遠くに追い払った後、遼東地方を引き続き攻撃した。

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 これとともに、内部の支配体制も整備した。二世紀後半の故国川王(こぐつちょんわん)の時代に至り、王位継承の原則を兄弟相続から父子相続に改めた。王妃も特定部族出身に限定し、王族と王妃族が連合して王権を強化した。さらに高句麗を形成した五種族の名称をとった桂婁部(けるぶ)・消奴部(そのぶ)・絶奴部(ちょるろぶ)などを、東・西・南・北・中の五部に変えた。

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 こうして、以前の部族的伝統から抜け出し、王権を強化した高句麗は、乙巴素(うるはつ)を宰相に登用し、彼の建議で賑貸法をおこなった。これは貧民救済策で春に穀物を貸して秋に若干の利子を付けて受け取り、農民生活の安定を図るというものであった。
 高句麗は、増大する国力を基礎に遼東に進出しようとして、中国と対立した。当時の中国は、後漢が滅びて、魏・蜀・呉の三国が並び立ち、中国との国境地域である遼東地方は鉄が豊富に埋蔵しているだけでなく、中国としては東方進出の根拠地であり、高句麗にとっては外的の侵略を防ぐ盾となる戦略上の要衝であった。
 以後、東川王(とんちょんわん)・美川王(みちょんわん)、故国原王(こぐおんわん)の時には継続して中国各国および百済(ぺくちぇ=くだら)との勢力競争を通して対外的に体制維持を図った。また小獣林王(そすりみわん、在位:371~384年)の時には仏教を受け入れ、大学を設立し、律令を制定し、対内的な体制変化に対応していった。

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 こうして絶えず外部的に拡大することなしには体制を維持できなかった高句麗は、広開土王(くわんげとわん、在位:391~412年)・長寿王(ちゃんすわん)代に至ってその外延的拡大が極みに達する。 


    引用                  概説 韓国の歴史(韓国放送通信大学校歴史教科書)
                         図説 韓国の歴史
                         愛知学院大学「朝鮮史」講義


        鈴木純夫                                                                   
                                                                   

Ⅶ:北海道和種馬ー高句麗②広開土王碑について

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        広開土王(好太王 在位:391~412年)碑

 高句麗を語る上で避けて通れない、広開土王(くわんげとわん)碑の内容について詳しく述べてみたい

 広開土王碑は息子の長寿王(ちゃんじゅわん 在位:412~491年)が、広開土王の死後414年に自国の領土を広げた功績を讃え、王墓の管理を規定するために建てたものである。
 しかしこの碑文の内容をめぐり、日本と韓国・中国の学者による研究は未だに活発である。
 高さ6.39mの方柱状の巨石を用い、その4面に1,800を越える文字が刻まれた東アジア最大の墓碑である。
 
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         集 安

  墓碑は、明治13年(1880)に地元の農民が「清」の集安で発見したもので、それを明治17年(1884)日本陸軍砲兵大尉酒匂景信が拓本として持ち帰り、その後参謀本部で碑文を解読した。
 現在において、未だに研究が活発な原因は、日本陸軍参謀本部が「倭」が「韓半島」に「渡海」したと解読したところにある。
 広開土王の在位期間中、日本の天皇は第16代仁徳(在位:313~399)~第19代允恭(在位:412~453)にあたる。

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                        拓本

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               拓本釈文
 その問題点について
 記事の内容は3つの段落に分けられ、第1段目は高句麗の建国に関わるものである。
 高句麗の始祖が北扶余の出である事、母が河伯(かはく 河の神)の娘であることなどが記されている。
 第2段目は、広開土王の戦功の記述が中心で、北方民族や百済・倭との戦いや王が攻略した城の名前が書かれている。
 第3段目は、広開土王の墓に330家に上る大規模な墓守集団を永遠に置くことを規定している。
 日本との関係で常に問題になっているのは、第1面から第2面にかけての記事で、高句麗と百済・新羅・倭の関係記事である。第1面8行から9行目にかけての記事に「百残新羅旧属民 由来朝貢如倭以辛卯年 来渡□(海)破百残□□□羅以為臣民」とあるが、このまま読むと「百済・新羅は旧高句麗の属民であったのに辛卯年(391年)倭が海を渡って来て百残□□□羅を破って臣民とした」と読める。
 この碑文の記事をそのまま採用すれば、当時、倭が百済の地域をも支配したことになる。実際はどうであったのだろう。広開土王碑に従って戦闘の推移を見ていくことにしたい。
 辛卯年の「破百残□□□羅以為臣民」の記事は、永楽6年(396)の広開土王自らが兵を率いての対百済の戦闘の発生の理由となっている。辛卯年の事件が倭によって引き起こされたことから、本来、高句麗の制裁対象は倭に向けられるはずで、百済・新羅は救援の対象となるべきところ、高句麗は百済・新羅をその蔑称である「百残」と呼んでおり、高句麗の攻撃の矛先は、百済だけに向けられていて、同じく倭の臣民となったはずの新羅が制裁の対象からはずされていることが大きな謎である。
 この戦闘の結果、第2面4行目7文字から始まる記事の見られるように、百済は高句麗に永遠に「奴客(どきゃく)」として隷属することを誓わされる。
 そして、2回目の大きな戦闘は、第2面6行目31文字目にあるように、永楽9年(399)に百済がこの誓いに背いて倭と同盟したことにより始まった。
 この時倭は、この同盟を背景に新羅に侵入した。新羅は、高句麗にに救援を求め、高句麗は翌年、5万の兵を送り、倭を撃退し新羅を救ったのである。
 残念ながら、第3面の先頭の部分が欠落していてこの戦闘の推移を知ることは出来ない。
 倭が高句麗と戦ったという記事は、この永楽9年の戦闘が初めてである。その後、倭は再度永楽14年(404)に帯方界に進入し高句麗と衝突したが、「斬殺無数」という損害を受け撤退している。
 以上、倭と関係ある戦闘記事を見てきたが、碑文が高句麗の立場から一方的に書かれていること、辛卯年の倭による百済や新羅支配の記事は、中国側の文献や韓国側の文献資料である「三国史記」には見られず、また、最近の考古学上の成果からも、倭が両国を支配下に入れたという記事を証明する資料が見られないことから、さまざまな疑問が投げかけられている。
 広開土王碑は、拓本の作成のため文字表面に石灰塗料されたり、さらに文字が書き換えられるなど、研究者の中には、日本軍参謀本部による意図的な改ざん説を主張する人もいる。
 「百残新羅旧属民~」に始まる記事をどの様に解釈するか、また、高句麗・百済・倭がどのような関係にあったかということは、今後の国際的な共同研究を待ち解明しなければならない問題である。


   引用            佐賀県立名護屋博物館 学芸課 廣瀬雄一氏 「高句麗広開土王碑とその時代」
                  図説 韓国の歴史
                  愛知学院大学「朝鮮史」講義
                  日本史小典

 
       鈴木純夫
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