続き
660年ついに新羅が唐と連合して百済を攻撃した。百済は既に防衛力を喪失した状態であったため、たやすく崩壊してしまった。百済が滅亡すると各地で百済の遺民が復興運動を起こした。福信(ぼくしん)・道琛(とちむ)・黒歯常之(ふくちさんじ)・王子豊(わんしぶん)などが復興軍を率いて活躍したが。663年※②、新羅と唐の連合軍が百済復興軍と大和(日本)軍を錦江河口で撃破したことを契機に、百済の復興運動は次第に消滅した。
百済の滅亡後、比較的自由に動けるようになった新羅軍の支援を受け、唐軍は高句麗を度々攻撃した。高句麗の戦略的位置は非常に弱まった。そのような中で、長い戦乱により疲弊した高句麗で淵蓋蘇文(よんげむそん)が死亡すると、彼の息子たちの間に内紛が起こった。この機に乗じ、新羅と唐の連合軍が大攻勢をかけたため、高句麗は668年についに滅亡した。唐は平壌に安東都護府(あんとんとごふ)を設置して高句麗地域を唐の領域にした。高句麗の滅亡後、高句麗各地でも剣牟岑(こむもじゃん)・安勝(あんすん)・高延武(こよんむ)などが復興軍を率いて活躍した。
新羅の三国統一により朝鮮半島には平和が訪れ、人々は戦争の苦しみから解放された。しかし、新羅による三国統一の過程は、侵略者と結託し同族国家を滅亡させ、かつての高句麗の広大な領域を放棄したという悲劇的な側面を有していた。一方では、三国の民の間に存在した異質性をなくし同類意識をもたせ、一つの「民族」を形成する重要な契機ともなった。三国統一を契機に、初めて一つの民族共同体が形成され、民族国家の基盤を整えたのである。
しかし、統一戦争が外国勢力である唐の勢力を朝鮮半島に引き入れて遂行されたという点に大きな限界があった。また、三国統一が不完全であったため、朝鮮半島北部と中国東北部地域を失ってしまうという限界もあった。よって、新羅による三国統一の意義を否定し、高麗(こまー901~1,391年)による統一が民族最初の統一であるという見解も提起されている。しかし、一部に限界があったとしても三国統一の歴史的意義を無視することは出来ない。領土をを失った不完全な統一は渤海(ぼっかいー698~926年)の建国と高麗の再統一により補完されたのである。また、外国勢力を引き入れて同族を討ったという批判もあるが、当時の三国と唐は各々が別個の国家として競争関係にあったという点からみれば、新羅王室が自国の困難を克服しようとした努力の結果とみることもできるであろう。
※①大化元年、中大兄皇子(なかの おおえの みこー天智天皇ー在位:668~671年)は蘇我倉山田石川麻呂(?~649年)や中臣鎌足(なかとみの かまたりー藤原鎌足ー614~668年)の協力を得て、王族中心の中央集権を目指した、蘇我蝦夷(そが えみしー?~645年)・入鹿(いるかー?645年)を滅ぼした(乙巳の変ーいっしのへん)
※②663年8月、朝鮮半島南西部錦江河口の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅対大和と百済の遺臣の決戦が、2日間に渡って行われ、唐と新羅連合軍に突撃攻撃を試みたがいずれも失敗。400余隻の船(新羅の記録に大和の水軍は、1、000艘隻、唐の水軍は170艘隻とあると言われている)は炎上し、海水は大和軍の死傷者で赤く染まったと伝えられるほどの惨敗であった。
この惨敗の理由として、戦況判断の誤りという作戦上のミスも指摘されるが、根本的には豪族連合軍という大和軍の編成形態に問題があった。
相互の意思疎通を欠いたまま、豪族軍が個別に突撃を繰り返し、各個が撃破されて行ったのが戦闘の真相であろう(大和王権は地方に強力に支配していたのではなく、地方の豪族の政治勢力と緩やかな政治的連携を結ぶに留まっていた)
謂わば、豪族連合軍の持つ弱点・欠陥が大きく露呈されることになった事である。
それまでの豪族連合に代わる、新たな軍事編成方法が模索されることになる。
国制上の重大な変更として、豪族連合軍という編成形態と政治体制を、政治体制そのものを変える新たな政治体制、それが「律令」であり「律令国家」であった。
引用 愛知学院大学「朝鮮史」講義
日本軍事史
図説 韓国の歴史
鈴木純夫