7世紀中盤に入ると三国は、急速な展開をみせた。642年、百済は新羅を攻撃し、大那城(でやそんー慶尚南道侠川所在)をはじめとする新羅西部地域の要塞地を蹂躙した。この難局を打開するため、新羅の金春秋(きむちんじゅ)は高句麗の平壌城(ぴょんやんそん)を訪問し、その年にクーデターで執権した淵蓋蘇文(よんげむそん)と会談した。両国間の戦争をやめ、関係を改善しようとしたのである。しかし、漢江流域の返還を求める淵蓋蘇文の要求と判断の相違のため会談が決裂すると、逆に新羅に対する高句麗の攻勢が強化された。
645年※①には唐の大軍が高句麗に侵攻してきたが、安市城(あんしそん)の戦いに敗れ退却した。金春秋は最後の協調対象であった唐に赴き、新羅と唐の同盟を積極的に推進した。唐は高句麗侵攻が失敗に帰した後、高句麗の南部国境に第二戦線を構築することを望んでいたため、喜んで新羅と手を組んだ。ここに新羅と唐との強力な軍事同盟が成立し、6世紀末以後、高句麗をめぐり展開されていた三国間の対立の波と、中国の統一王朝と高句麗との間の戦争の波が直接結びつくようになったのである。その波は東北アジアの情勢を根底から揺るがすものであった。
第29代武烈王(在位654~661年)三国統一のため各将軍らと百済攻略作戦を立てている。
新羅と唐の、このような動きに直面し、高句麗と百済は協力を模索した。さらに高句麗はモンゴル高原の遊牧民国家薛延陀(せつえんだ)と中央アジアのサマルカンド地域にあった康国(こうこく)などに使節を送って同盟を模索した。当時、康国を訪問した高句麗使節の様子が描かれた壁画(アラシャブ壁画)が近年発見され、使節の存在が裏付けられた。こうした試みは、唐を多方面から牽制するためのものであった。一方、百済は大和(日本)との関係を強化した。
このように7世紀中頃、東北アジアの情勢は朝鮮半島をめぐり、東西の同盟軸と南北の連結軸が交差し対立する形勢を示した。しかし、前者が後者よりも結束力が強かった。
続く。
引用 愛知学院大学「朝鮮史」講義
図説 韓国の歴史
日本軍事史
鈴木純夫