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Channel: 「日本在来馬」歴史研究会
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Ⅶ;北海道和種馬ーまとめ

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 愛馬「理宝号」、8歳・月毛・体高130㎝・妊娠278日(馬の妊娠期間は、約340日)・2月22日撮影
 女性の身長は、153㎝。
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 ウマの妊娠経過にともなう胎子の成長と性腺肥大

 2月15日~17日で、鹿児島県指定文化財のトカラ馬の取材を行い、在来馬8種全ての取材が終わった。

 そのため今回掲載にて、著者が考える「北海道和種馬」の「種」としてのあるべき姿(利活用)を述べ、終了とする。

 尚、「日本海沿岸ルート説」の調査を進めて行くにつれ、「太平洋沿岸ルート説」の調査もしなければいけなくなった事が分かった。

 当ブログは、「日本在来馬」の歴史研究をテーマとしているため「歴史学」を勉強することは当然のことであるが、必然的に「考古学」の分野と合わせ、環境・地質・生体・民俗学など色々の知識を得ずには進めて行くことは出来ない。
 著者の目指すところは、「日本在来馬」のルーツであり、現在言われている「学説」に加え、上記の「2つのルート説」を解き明かし、東北地方が「名馬の産地」となった事を理解することにある。
 また、「馬」が「農耕・荷駄」だけでなく、「軍馬」として使われた点に留意して、「馬具・武具」に加え「合戦」についても推論をしていく。
 読者の方に上記の件につき、満足していただけるように完結させる時が、何時になるか予想が出来ない事を前もって述べて置きたい。


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  著者が聞き取り調査した平成27年度日本在来馬数

 図のように、総数・1819頭のうち北海道和種馬が、1,205頭と全体の66%を占める状態にある。
 因みに、日本在来馬の個体数が最も多かったのは、平成6年の総数・3,466頭で、そのうち北海道和種馬が、2,928頭(約84%)であり、最も個体数が少なかったのが、宮古馬・23頭であった。
 ようするに、日本在来馬の総数の増減は、北海道和種馬の増減にあることがわかる。

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 北海道和種馬の飼養頭数と生産頭数の推移

 まとめ北海道和種馬の利活用方法は究極的に考えると、以下の5点である

 1:北海道和種馬が持つ独特の伝統技法である「ダンズケ」である

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 「ダンズケ」がもととなる、完全な側対歩が出来る馬の作出が必要。

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 2:野外活動の活発化に伴うトレッキングイメージ 8

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 3:体高から考え、セラピー馬として使用する。
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 サラブレットより、北海道和種馬の方が、介助者の作業が容易であることが分かる。


 4:現在各地で盛んに行われるようになった、流鏑馬に使用する。
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 装束は各団体で異なっているが、馬具(和鞍・舌長鐙)、乗馬方法については、あくまでも和式乗馬術で行って欲しい(鐙に体重を落とし、鞍に座らずに透かして乗る)

 
 5:食肉
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 馬肉消費量の推移

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 馬肉輸入量の変化

 馬肉は、他の畜肉と比べ、脂肪が少なくタンパク質含量が比較的高い。
 輸入肉よりも、日本在来馬の肉の方が旨いとされ、中でも北海道和種馬は赤身と脂身の具合が良い言われている。
 現在焼き肉屋で出される、「ユッケ」は全て馬肉である。
 また、日本の食文化で伝統的な内臓料理として、「おたぐりーウマのもつ煮」や「なんこ鍋ーウマの腸の味噌煮込み」などがある。



       引用               ウマの起源と家畜化
                         農用馬・在来馬の生産システム
                         ウマの繁殖
                         北海道和種馬の起源と利用・保存
                         北海道和種馬の地道に活用の道を模索
                         日本馬事協会・平成24年度事業報告「在来馬関係」


        鈴木純夫        

Ⅷ:トカラ馬ーはじめに(論文紹介)

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                 開聞岳山麓のトカラ馬

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  鹿児島県・トカラ列島

 鹿児島県旧大島郡(現在、鹿児島郡)十島村宝島に、矮小在来馬を見出し、これを「トカラ馬」と命名した。
 この馬は明治30年頃、旧大島郡喜界島から導入されたものに起源する。
 宝島は南海の孤島であるため約50年間、他の種血液を混んずることなく、純粋のまま世に知られず残存した。

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 昭和28年7月に43頭を確認し、同年鹿児島県は文化財として天然記念物に指定し、保護を図ることにした。
 トカラ馬は現在わが国に残存する、日本在来馬である。
 成馬の体高は、108~122㎝。その平均は牡馬:114.9㎝、牝馬:114.5㎝である。体重は、190㎏前後である。白徴がなく、毛色は黒鹿毛・栃栗毛の様相を呈するが、毛色の判定は極めて困難である。鬣(たてがみ)は密生して、かつ長く、上下唇に明らかな口吻旋毛(こうふんせんもう)が認められる。
 頭部は比較的に大で、頸は短くして水平、背腰は比較的に長く、尻は短斜を呈し、前軀に比して後軀貧弱、四肢細く、後肢は外向き、曲飛・X状肢勢を呈する。蹄は小さいが、蹄質堅靭・粗飼・耐熱性に富み、山地を上下するのに極めて巧みである。
 駄載と黒糖造期にサトウキビの搾汁作業に用いられたが、産業的に価値の少ないトカラ馬は、次第に減り、昭和38年には20頭と半減した。
 このままでは絶滅必至の状態であった。当時、鹿児島市の岩崎与八郎氏は薩摩半島の南端の開聞岳山麓に広大な亜熱帯自然公園を建設中であり、同氏からトカラ馬を購入し増産をはかり、保護と観光に役立たせたいとの申し出があった。

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      岩崎与八郎氏の銅像  


 鹿児島県文化財保護委員会は、この要望を認めたので、昭和38・39年の2ヶ年にわたり14頭を導入し、それが昭和49年1月現在、20数頭となっている。
 また、鹿児島市磯公園に繋養されていた4頭のトカラ馬を昭和43年末に鹿児島大学農学部付属入来牧場が購入し、同牧場に放牧しその後、増えて昭和49年1月現在12頭となっている。
 一方原産地である宝島では、牡馬・牝馬2頭を残すだけである。
 引用   日本在来馬の系統に関する研究
       特に九州在来馬との比較
       林田重幸著
       昭和53年12月25日 発行
       日本中央競馬会

 平成29年2月15~17日、鹿児島大学入来牧場・開聞岳山麓に現地直接取材、中之島(宝島から移入)は電話取材(4月21~23日に訪問予定)によると、現在の頭数は以下である。

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 鹿児島大学入来牧場
 頭数:41頭(牡馬:19頭)
 平成28年4月~29年2月に生まれた仔馬の数:4頭(牡:3頭、牝:1頭)

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 開聞岳山麓
 頭数:57頭(牡馬:27頭)
 平成28年4月~平成29年2月に生まれた仔馬の数:9頭(牡馬:6頭、牝馬3頭)

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 中之島(喜界島で発見され、宝島に移り現在に至る)
 頭数:21頭(牡馬:12頭)
 平成28年4月~平成29年2月に生まれた仔馬の数:3頭(牡馬:1頭、牝馬:2頭)

 トカラ馬の総数:119頭(牡馬:58頭、牝馬:61頭)

                  取材協力:鹿児島大学農学部付属農場 准教授・農学博士 大島一郎氏
                         開聞山麓自然公園 岡本敦郎氏
                         十島村契約職員 本多氏

 
           鈴木純夫

Ⅷ:トカラ馬ー号外 石和八幡宮流鏑馬神事 甲斐駒流鏑馬

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 建久3年(1、192年)、石和五郎信光(武田信光)が、鎌倉幕府創建における功績により、甲斐国河東半国の守護となり、石和に政庁として居館を構えた際、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀し、甲斐源氏の氏神として、国衙八幡宮と改め後に石和八幡宮と称した(祭神:天足彦押入命・日売大神・稚城瓊入彦命)
 甲斐源氏一門の崇敬厚く、正治2年(1,200年)より永正16年(1,519年)に武田信虎が甲府躑躅ヶ崎(てきちょくかさき=つつじがさき)に居館を移すまでの320年間、弓・馬に秀で将軍や執権北条氏の指南役を務めた。
 武田信光の武技に因み、甲斐源氏一門の射法相伝の儀式は当社で行われた。

 上記の先例にならい、4月3日の「例大祭」の最初の日曜日(今年は4月2日)に、甲斐駒流鏑馬をご奉納した。

流鏑馬奉納奉告祭
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  奉行:「流鏑馬はじめそうらえ」    神事、1の射手:「承りそうろう」

1:蟇目放射
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  矢の先に鳴鏑(なりかぶら)を付け、45度の角度で放射。ピューと鳴って「2的」と「3の的」の上空を放射線上に飛んだ。

2:口上流し旗
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  「流鏑馬奉納仕り候」と声高らかに、走路を往復。

3:馬上舞(神楽鈴)
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 馬上舞(扇)
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 神職によって清められた走路を、「神楽鈴の舞」と「扇の舞」で、更に本日の流鏑馬神事の安寧を願うとともに、鞍から尻を透かして乗る、「和式馬術」の始まりである。

4:流鏑馬神事
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 3人の神事射手は、頼朝が富士山麓で狩りをしていた時に着用していたと伝わる装束姿で、流鏑馬を行う。
 直垂若しくは水干に、頭は、後三年烏帽子の上に綾藺笠を被り、両手は白皮手袋。左腕に射籠手、腰には鹿の夏毛で出来た行縢(むかばき=狩り場に木々の枝などがあったときに、装束や腰下部分を守る)。太刀と脇差を佩帯し、右腰に、箙(えびら=矢を納めるもの)を付けている。

5:平騎射
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 平騎射とは神事射手とは異なり、後三年烏帽子・直垂若しくは水干のみの装束で行い、以上までが神事である。

是より馬上武芸
イ:5色の流し旗
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  ロ:先導付き流鏑馬(初心者が速足で、2的を打つ)
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 ハ:薙刀の演武
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 二:弓手下(ゆんでした=左下に矢を射る)
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 ホ:弓手横・追物射(ゆんでよこ・おものい=左真横射と左前方に矢を射る)
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 へ:追物射
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 ト:押捩・追物射(おしもじり=上半身を左後方に捩り矢を射る・おものい)同時打ち
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 チ:蟇目(3人の射手が同じ姿勢を保ち、次々に矢を射、残像までを見せる)
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 ツ:長巻の演武(南北朝期頃から使われ始めた刀で、柄と刀身がほぼ同じ長さ)
    ※著者の持つ長巻の銃砲刀剣登録証には「なぎなた」とある)
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 「長巻持てい」と供に命じる。
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                    圧巻の演武

 テ:馬手下(めてした=馬の首を跨ぎ弓を右側に構え射る)
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 ト:鑓(長さ約3.3m)

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      お見事!(女性です)

 チ:馬手追物射(めておものい=馬の首を跨ぎ、弓を右側に構え、前方に矢を射る)
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  ※(5世紀の高句麗古墳壁画には、弓を右手に持ち矢を射る姿が描かれている)


       協力           石和八幡宮
                     紅葉台木曽馬牧場
                     甲州和式馬術探求会

       写真提供         林 佳夫氏


                                    鈴木純夫


Ⅷ:トカラ馬ー産馬大鑑より、鹿児島馬①

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 産馬大鑑は明治40年に、陸軍大学校教官・1等獣医 原島善之助氏により著作・発行されたものである。そのため漢字に、旧字・異体字が多く、「大辞典ー上田万年著、講談社」「字通ー白川静、平凡社」にたより著作者なりに読んだが、誤訳について読者の皆様からご指摘頂ければ幸いである。

 産馬の淵源(えんげんーはじまり)は、邈古(ばくこーはるかむかし)窺(うかが)ふ可からざるも、古史を繹(たづ)ぬるに、大隅国曾於郡春山野牧の地(東曾於郡恒吉村と市成村とに跨る諏訪原の一部を言う、良馬産出主脳の地たり)は、天孫御牧と稱(とな)ふ、傳(つた)へ云う。
 皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の初めて置き給う所にして、上古天馬の遺産として霧島、韓国獄、の邊(あた)りに馬の蹄痕往々あり。其馬曁鬚(あごひげ・たてがみ)飽迄(あくまで)長く、険壑(けわしいたに)を躍騰(はやくのぼる)すること飛鳥(とぶとり)の如くなりしと云う。是に依て之を見れば、神代(かみよ)の古厩󠄃(ふるいうまや)に業(なりわい)に馬を此地に牧養にせるものの如し。其起因の遠き、實(じつ)に豫想(よそう)の外にありと謂ふ可し。降りて「推古紀」に、皇朝に於いて冠絶(かんぜつー最もすばらしい)たる品目(ひんもく)を品定(しなさだめ)せられし歌に曰く、「宇麻奈羅姿僻武加能古摩ーうまならばひふかのこま」と云う句あり。乃(より)て在馬也日向駒と云う事にして、其日向と云うは大隅薩摩をも併せ稱せるものなり。

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天保4年(1833年)の鹿児島県・宮崎県の地図

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 「書紀」に「日向国出千里駒ーひゅうがのくにせんいごまいで」」、又大伴人「献青馬白髪尾-あおめしらおをけんず」の文字あり。「姓氏録」に、允恭帝の時((在位:412~453年)、湯座連(ゆざのむらじ)を遣わして薩摩に来たり、隼人(はやと)を平治(へいじーちんあつ)せしむ。其復奏(ふくそうーこうふくのあかしとして)するや、馬一匹を献ず。「額毛如町-ぬかげあぜのごとし(ひたいの毛がしっかりしている)」。「帝喜乃賜姓額田部云ーみかどよろこびて、ぬかたべのせいをたまうという」。「三代実録」に貞観2年(860年)10月18日大隅国吉多野神の二牧を廃す。馬多く蕃殖して、百姓の作業を害するに由ると云う。「延喜式」に、日向に牛馬の牧を置か所謂(いわゆる)、野波野馬牧、提野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、馬野牛牧、三原野牛牧」とす。然して馬は5・6歳、牛は4・5歳、各荒刷剉(こうさつりー毛並みを整えたり、角を切ったりする事)を備へ、大宰府へ送らしむ。帳は馬寮に進み(とばりは、めりょうにすすみー馬を専門に扱う部署の陣幕の中に進む)、凡そおお祓いの馬は(神職によってお祓いを受けた馬)、正税を以て買はしむ。價稲(価稲―稲の値段)50束を過くる事を得ず、又驛馬(えきうま)缺乏(けつぼうー欠乏)すれは、繹稲を以て市替するがため、其直法(じきほうー決めた値段)は一定せられ、其各国の相場を列記せるものの内、大隅、薩摩、日向三ヶ国の驛馬」は、上一疋400束、中一匹300束、下一匹200束とすとあり。朱雀帝(在位:930~946年)承平4年(934年)甲午7月17日、乙卯薩摩国唐馬一匹を進む。諸縣郡福山以東、末吉、恒吉の如き諸所、山川峻峭(しゅんしょーけわしい)にして岩石磊累(がんせきらいるいー石や岩がゴロゴロしている)、其牧畜の如き、毎艱難(かんなん)を経、備さに辛苦を甞(なめる)めたり。故に其駿健なること殊に勝れりと記すものあり。「伊昨記」に寿永中((1182=1185年)源将軍頼朝の佐々木高綱に賜いし池月(生月)は薩摩国頴娃(えいあい)郡池田の牧より出つとあり。淳之介(?)甞て頴娃村を過ぎ、之を探問するに、池月は頴娃野に産し、常に池田の池の水を呑む。一躍池中を渉ること數次、池月とは池田の一字を取りなしものなり。明治4年(1871年)頃迄は、其後裔(こうえいー子孫)残り、之を開門神社に献納し、神馬とし飼養しつつありき。其毛色は池月と同じく、連銭葦毛(れんせんあしげ)にして牝馬なりし。
 頼朝諸国に一ケ所つづ地を卜(うらない)し一寺を建立する。其名を安養寺と名つく。薩摩の国に於いては今の頴娃村尋常小学校設立の地に建立せしと云う。池月の墓は、現今姶良郡重富村別府川の川畔にありと傳ふ。池月に就き當記ありしも、今は紛失し、其所在を知らすと、遺憾と云う可し。(佐々木高綱が乗りたる池月の産地は、疑義に属するも、口碑に依り茲に付記せしのみ)

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         生月(いけづき)「平家物語絵図」より

 上記説明書きに、生月が「連銭葦毛で牝馬」とあるが、明治以前までは軍馬は全て牡馬であり、毛色は平家物語絵図の様に「鹿毛」である。


 家畜として馬を連れた渡来人が、4世紀後半~5世紀に、朝鮮半島から北部九州ー瀬戸内海ー現在の大阪府四条畷市に到着するや、馬を連れた渡来人が、東方を目指したことの証明に固執し、本ブログでは掲載してきたが、本著から北部九州から南下したことにも以後、考察しなければならないという思いに至った。


                           解読指導   豊田市芳友町 芳友寺住職・安藤源亮氏


         鈴木純夫

Ⅷ:トカラ馬ー産馬大鑑①橋牟礼川遺跡から馬を検証

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     開聞岳:標高、924m
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    橋牟礼川遺跡の場所

 国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡は,指宿市十二町下里・橋牟礼に位置する。遺跡は海岸に向かって緩傾斜する標高20m前後の火山性扇状地にある。
 国指定史跡に指定されたエリアを国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡と呼んでいる。
 橋牟礼川遺跡の発見は、大正4年に指宿村出身で、当時、旧制志布志中学の学生であった西牟田盛健が土器を採取したことによる。その後、大正6年の山崎五十麿の報告によって、アイヌ式土器と弥生式土器が同時に出土する遺跡として全国に知れるところとなった。
 これが契機となって、大正7,8年に濱田耕作、長谷部言人らによって発掘調査が行われ縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが日本で初めて層位学的に実証された。この成果をもって大正13年には、国指定史跡に指定され、昭和54年に2.36haが公有地化されている。
 大正の調査以後は、昭和23年に山崎五十麿、寺師見国、村野守治らによって鹿児島県国立公園候補地学術調査が行われ橋牟礼川遺跡の重要性が追認された。
 その後、昭和49、50年に確認調査が行われ、国指定遺跡の範囲内に奈良~平安時代の土壙墓群や古墳時代の土器の捨て場などが発見されている。
 平成3年まで行われた発掘調査で、度重なる開聞岳の噴火によって火山災害を受けた遺跡であることや、古墳時代の大集落があることがわかった。特に、平安時代(西暦874年3月25日)の開聞岳火山灰に直接埋まった当時の集落が発見され、注目を集めた。遺跡の重要性に鑑み、平成4年度からは、重要遺跡の範囲確認調査が行われ、平成8年度には、新たに1.86haが国指定史跡の追加を受けた。
 濱田耕作は、指宿遺跡の発掘調査報告書の中で、橋牟礼川遺跡のことを「先史時代のポンペイ或いはサントリン」と称したが、その予見はまさしく的中した。
 昭和63年には火山灰の重みで倒壊した建物跡が発見され、西暦874年の開聞岳の火山災害を直接受けた遺跡が保存されていることが証明された。その後の調査でも通称紫コラと呼ばれるこの火山灰の直下から、畠跡や道跡、貝塚などが発見され、当時の集落がそのまま埋没していることが確認された。特に畠については広範囲から出土されており。西暦874年時点で橋牟礼川遺跡では畠が営まれていたことが明らかになっている。
 橋牟礼川遺跡では、西暦874年3月25日の地表面を掘り下げると7世紀第4半期開聞岳噴火によって堆積した火山灰、通称青コラが堆積している。この青コラの下層から古墳時代の大集落が発見されている。竪穴住居群、土器捨て場、貝塚、溝状遺構、道跡等の遺構群が発見された。また遺物では、大量の成川式土器の他、初期須恵器、子持ち勾玉、青銅製鈴青銅製鏡片等の威信材も出土している。

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 古墳時代の共伴出土物から一緒に出てきたため、年代・雌雄は不明
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 平安時代の馬の歯
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 江戸時代の馬の歯


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  日本最古の馬鍬の跡

 鍬があることは、鉄が既にこの地に移入していることが分かる

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 鉄さい

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 鉄鏃(鉄の矢じり)
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 刀子(短刀)
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 ふいごの羽口




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   製塩土器


 以上、橋牟礼川遺跡の古墳時代の出土物を見ると、この地に大豪族がいた可能性や、「馬」の「歯」が古墳時代~江戸時代までの地層の中に埋もれていたことは、産馬大鑑②の資料から説明することとする。


    引用            「指宿市教育委員会1996「橋牟礼川遺跡Ⅵ」
                   「指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書」

    協力             時遊館COCCOはしむれ


          鈴木純夫

Ⅷ:トカラ馬ー産馬大鑑②

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     島津氏一族系譜略図


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      九州南部の地図

 建久4年(1193年)、島津忠久公(初代目・得佛公)封を受くるや(九州南部の地を与えられたが、図の部分を面として与えられたのではなく、点と点の様に一部分を与えられた)、本田静観(正しくは、本田宗親:ほんだ むねちか)をして、先つ来て国を観せしむ。(忠久公は鎌倉に在住しており、家臣の本田宗親に頼朝から与えられた国を観に行かせた)
 同5年(1194年)10月に至り宗親乃ち馬牧を瀬崎野に建てしむ。瀬之浦・加志浦・里多尾・脇本・宇波崎・あい屋・口尾島等は地名異なりと雖も、背牧ノ内に属す。
 同7年(1196年)8月1日、卿歳(忠久公)18歳にして初めて御下向あり。直ちに右牧場御巡覧の為、御居城即ち出水郡「木ノ牟礼城」を御発進、小字くつわ石を経て駒返しに至り、更に方向を転じて小字桟敷の段に至り、其適当の地なるを認められ、御帰城ありしと言う。(因に言う瀬崎野は、明治4年(1871年)8月を以て廃せられたり)
 道鑑公(5代目・貞久公)に至り黒多尾に狩りす。
 定山公(貞久公3男・師久公のことか?)、貞治7年(1368年)3月27日、執印友雄(執権北条氏の家臣で姓は不明であるが、名を友雄と言う)に書を賜い、寄田の牧領せしむ。齢岳公(貞久公4男・氏久公)また、友雄に書を賜う。「聖栄記」に、氏久公、馬を瀬崎・佐野・高原(並在荘内)・鹿児島・吉野・(大瀬多尾)・頴娃・小牧(嶽腰)・市木・大峯等の馬牧に乗り給うことあり。
 寛正6年(1465年)、大嶽岳公(9代目忠国:島津氏一族系譜略図では10代目)、弓馬の法を悉く(ことごく)、川上道安(吉野川上の領主であった、川上親久の子孫)に授けられ、道安をして、しばしば馬を市木に閲せしむ。文明年間(1469~1487年)の初年、節山公(11代目・立久公)、道安に高江寄田の牧を賜い、馬牧に従はしむ。
 永承年間(1046~1053年)、伊集院に春山野あり。天文年間(1532~1555年)、加世田に野間野あり。與に馬牧ありたり。「邦馬略記?」に依れば此年間?、羅馬(ロバ・ポルトガル)及びオランダの人、アラビア馬を此国に輸せり。時の執権足利氏は、馬種の改良の緊要なるを知らず。普(あまね)く之を広く海内に分かち、其繁殖を図らざりを以て、藩主は領内に置き独占。之が増殖をなせりと言う。(之を古老に聞くに藩時、薩摩吉野牧の内に一部を画して(境を作って)唐(から)の牧と称する。特別の牧場ありたり。本場の産馬は、骨格偉大・羊頭細耳にして頸細長・皮膚非薄・毛子繊軟。歩法馬車馬の如き馬は特殊な属種たりしと。古老の目撃したる所にて、廃藩の際、しばらく人民に払い下げられたり。口碑に言う。本馬の由来は、往古種子島に外人輸入の馬を藩主朝聞をはばかり、ひそかに揖宿に上陸せしめて、本牧場引き入れ、繁殖図りたるものなりと。是れ即ち天文年間の輸入に係ることは本文を見て明らかなり)
 鹿児島馬の素あるを知るべきなり。天正元年(1572年)の御陣賦(ごじんぷ)に御厩奉行有之。「上井党日記」に「同2年(1573年)常に出仕申すごとし。和泉(按するに出水にて島津義虎公)、瀬崎ノ馬追なされ候、無品に候得共、駒一疋進上の由御申し候。(中略)やがて御返事は、瀬崎駒御進上候。殊に一段之駒にて候。かぎりなく御秘蔵候て、いかさま(?)御参上の砌、之御覧なされるべき由候とあるを散見せり。同4年(1575年)丙子4月、近衛前久公、鹿府(藩主の在所)に賓たるや(薩摩藩主・島津氏が敬うべく客人として招いた)
 貫山公(不詳)、馬追いを御覧に供せりと言う。同8年(1579年)4月14日、始めて廻野牧を置く。同14年(1585年)8月14日、牧神を創(はじ)む。狼害を制するなり。又、曾於郡に春山野あり。平野にして清水あり。鹿野に高牧野あり。幸侃(こうかん・日柄が良い日)の時に至りて、之を廻野牧に移すと言う。又、伊昨に伊昨牧あり。今上使対條(?)は即ち、吉野・比志島・東郷・笠山野・頴娃野・唐松野・加世田野・間野・下甑野・上甑野」・出水瀬崎野・長崎野・高江寄田野・市木野・伊作野、是を薩摩の牧となす。
 蒲生青色野・曾於春山野・福山野・鹿屋高牧野・末吉野・佐多野、是を大隅之牧となす。
 皆馬牧にして、牛牧なし。
 この文面から、日向が島津氏以外の家、つまり、高鍋藩・秋月家の治世地になったことがわかる。まさしく「御崎馬」がこの時代から飼養され始めたのである。
 九州南部の地で、往古より「馬産」が盛んに行われていたことが記されているが、この地に「南部馬」「三春馬」
の移入の記録が無いのが残念である。
 また、西洋馬が火縄銃と共に種子島に伝来し、島津氏が産馬したとあるが、他藩の馬との違いを知るために、更に読み続けなければならない。

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  アラビア馬


 種子島氏の記録を以下に記す。

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 国史に初めて登場するのは、天武6年(677ねん)2月、天武11年(682年)7月には、種子島人・屋久島人・奄美島人の記録が「日本書紀」にある。
 淳仁5年(762年)、茅原王と言う人物が都から配流になって以来、幕末までの間に幾多の有名・無名の人物が左遷あるいは配流でやって来た。これらの人々がもたらした口承文芸、あるいは昔話の数も少なくないと思われる。
 13世紀初頭に、平信基が南海12島を受封して以来、その子孫と言う種子島氏が種子島を支配した。
 種子島氏の支配は、14世紀以降、維新当時まで及び、数百年間統治し続けた。
 従って、古い文化を良く温存し得たといえよう。
 現在は、牧はなく、主産業は農業である。漁業も盛んであるが、小型船による沿岸漁業が主である。農業は、稲・サトーキビ・カライモ(サツマイモ)・タバコなどを産し、温かい気候を利用し、輸送園芸・ポンカン・タンカンなどの栽培も行っている。


   引用                      産馬大鑑
                            日本書紀
                            戦国史 書10 薩摩島津氏
                            鹿児島県の馬・牧
                            鹿児島県畜産史上巻
                            中世期の種子島氏と南九州海域
                                                             種子島の昔話
                             日本史小典

  協力                       鹿児島県黎明館



            鈴木純夫

Ⅷ:トカラ馬ー産馬大鑑③奇獣「ウシウマ」のこと。

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   慶長の役  豊臣軍勢の布陣図

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義弘公が、慶長の役の際、明軍より獲たる「ウシウマ」の木馬


 征韓帰陣の際(慶長3年ー1,598年ー10月朔日、朝鮮軍泗川(しせん)の合戦の折、朝鮮軍の味方した明軍の軍馬十数頭を獲た)義弘公(島津家第17代当主ー1,535~1,619年)陶工20~30名及び、「ウシウマ」を獲て帰り、陶工は薩摩日置郡苗代川に於いて窯業に従事せしむ。世の賞玩する薩摩焼の濫觴(はじまり)即ち是なり。しかして其「ウシウマ」は帰還後、鹿児島公厩内に飼養したが、川上村の領主左衛門尉久隅が吉野牧を献じたので、是を此の牧に放った。しかし管理が適切でなかったためと、風雪に堪え難いものと考え、種子島公綱貴に数頭を与えた。綱貴は部下に命じ、安城村に芦野牧を設け、ここに放牧させ自然繁殖にまかせ、以来奇獣として世に知らるに至る。

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 是れ馬にして毛子捲縮(毛がちじみまつわりついている)、牛尾をそなえ、たてがみ・まえがみが欠け、奇観あるを以てなりと言う。体高は4尺1寸5分(約126㎝)である。種子島家世々相襲、保護繁殖・敢て怠る所なきも、臣下の之を養うを禁じ、又島外に出すを忌、主家島津家の命と雖も暗に之を厭ひ、厳命に接すれば、特に繁殖力の乏しき牝牡を選抜して献じたと言う。
 天保年間(1,830~1,844年)の編、三国名勝図絵によると、芦野牧の「ウシウマ」は約50頭であって、10名の駒奉行を置き、牧見廻りに同島の各牧を管理させた。
 維新の当時、此の奇獣、種子島公の牧場たる安城村芦野牧内(西ノ表より4里)に牝牡合計約60頭飼養しありたれど、廃牧に臨みてしばらく之を島内貧民に配興し、以来年月を追って族滅に傾かんとするや、隅々同島人・田上七之助之をなげきし。
 明治25年(1,892年)中、東奔西走捜索の後、西ノ表に於いて僅かに其一を獲るを得たり。時に此の奇獣の年齢は30年にならんとせりと言う。(明治28年ー1,895年ー斃死)
 即ち直ぐに自家所有の牧場内に、50~60頭の土産馬中に之を放ちしに(藩政の頃、田上氏は「ウシウマ」牧に接して一馬牧場を有し、常に雑種を生せしも、其佳良なるものは、しばらく主公に取り上げられたりと言う。此の実見有りしを以て即ち今回交尾を試みたりと言う)3頭の雑種を生し、内2頭は牝にして和馬に近く、他の1頭は能く「ウシウマ」に類似するを以て、明治29年(1,896年)冬同氏寄留地なる鹿児島市に引き来たれり。吾人の実見したるは、即ち是にして、体高4尺1寸5分(約126㎝)普通栗毛・たてがみ・まえがみ繊軟、わずかに其痕跡を存して少し捲縮し、尾はロバのものに似て、尾端に短毛を有し、尾根に近づくに従い、毛子を滅し、全身の被毛極めて細密、顔面小許の部位を除くの外、耳・けずめ毛の嫌なく、10本位宛相集いて、よく正円形に綣縮して奇観呈 する外、歯列・骨格・蹄形ならびに、いななく鳴き声に変状なく、亦背に駱線(鰻線の誤り)・肩に斑線なきも、後肢に附蝉(ふぜん)を欠くの異点あるを認めたり。真の「ウシウマ」は能く粗食に堪えて廃病少なく強力にして、蹴り上げの癖少なく能く人に慣れ、一且決する所あれば、剛頑にして制御困難を感じ、本馬亦これ等の性質を留めけると言う。

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 馬の各部位の名称

 馬史を按ずるに、ロバに3種の変種あり。その半ロバは、ロバと馬の中間に位すべきものなりと雖も、精細に之を倹すれば、馬に近似の点多きも、類縁はかえって変種の一たるアジアロバに近く、その体貌はロバよりはるかに美麗にして、耳は馬より長く、たてがみ尾蹄はロバに類し、附蝉は前肢著名なれども後肢に存せず。けづめも亦不明なり。その毛色は淡褐にして鰻線黒色を呈す。此の動物は常に強剛なる牡獣の統御に属せる群れをなし、性質は頗(すこぶ)る荒く、人に慣れさせること難し。アジアの山地に棲息し、チベット及び蒙古に散在すると言う。実見の雑種及び聞くところの真の「ウシウマ」なるものは、此の説明に符合する点少なく、又日清役従軍中、かつて韓地に於いて之に類似のものを目撃したることなきて、多少の変化を受けたるにあらざるにして、しばらく疑義を存じて識者の結論を待つ。

 産馬大鑑は明治40年に発行された書であるため、それ以降の「ウシウマ」は別資料により続ける。

 昭和5年(1,930年)頃、その数10数頭に過ぎなかったので、世に類例のない珍種の絶滅を恐れ、昭和6年(1,931年)国の天然記念物に指定し保護をはかることにした。以来、その系統は保たれてきたが、第二次世界大戦の激化にともない、飼養者であった西之表市安城住の田上雪男氏の応召により、管理不円滑と飼料難のため次々と斃死し、遂に最後の1頭第4田上号も昭和21年(1、946年)6月に斃死し、貴重な文化財もその姿を消した。

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 「ウシウマ」について、多年研究を続け、その保護に側面的援助を与えられた鹿児島大学名誉教授日野光次氏は、この絶滅を悲しみ、前記田上氏に死体の処置について照会したところ、同氏が埋葬した第4田上号の骨を保管していることを知り、同氏と相謀り、その骨を鹿児島県立博物館に寄贈することになった。鹿児島大学教授林田重幸氏はその骨を骨格として復元を依嘱されたが腐食した部位もあり、完全骨格に組み立てることは不可能であったから、入念に補修し、頭骨・胴骨・右側肋骨、及び右側の前後肢を組み立て、左側の肋骨と前後肢は別に保管することにした。
 組み立ては、昭和38年(1,963年)2月28日に終わり、同日、ガラス張りケースに収められた。

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 前回記載の「アラビア馬」や「ウシウマ」の血統が、現在のトカラ馬・その他の馬への有無は全く分からない。

 平成28年度の「日本在来馬」の総数は、1,757頭と前年比△62頭である。
 「ウシウマ」の悲劇を2度と起こしてはならない


        引用                         産馬大鑑
                                    「ウシウマの骨格」 林田重幸氏
                                    ウシウマ「牛馬」  日野光次氏
                                    鹿児島県畜産史上巻
                                    新アルトメイトブック馬
                                    日本史小典

        協力                         鹿児島県立博物館


          鈴木純夫                      
 

Ⅷ:トカラ馬ー第39回八ヶ岳ホースショーinこぶちざわ

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              甲斐駒旗を持った若武者を先導させる姫

 平成29年7月29日(土) 山梨県北杜市の山梨県馬術競技場で、7団体による演武が激しく降る雨の中、午後6時55分から始まった。(観客数 9,800人  実行委員会調べ)
 著者が加入する「甲州和式馬術探求会」の、物語仕立ての演武をご紹介します。(馬は全て、木曽馬の血を引く在来馬)
 
 昔々、紅葉の荘という豊かな郷がありました。
 武士の本分をわきまえた男勝りの姫が、郷の中で一番の武芸達者を求め、家臣に命じ武勇誉の5名の若武者を選び出させました。
 姫に認めてもらいたい選ばれし若武者達は、日頃の武術鍛錬の成果をいかんなく競いあったのです。

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               姫先導で入場する若武者達



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                   薙刀の技を競った若武者

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           押捩(おしもじりー上体を左後方に捻り矢を放つ)が見事に的中

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            追物射(おものいー弓を左前方に構え矢を放つ)が見事に的中

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              連射で全て的中させる若武者達


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             演武が終了し、整列で前進する姫と若武者達

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              一の武芸者を告げる姫

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          姫から「一の武芸者」と告げら、紅葉を渡された若武者

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             一の武芸者を先頭にウイニングランする演武者


 雨が降り続き、霧が現れる最悪の条件ながら見事に「和式馬術」の演武を披露することが出来ました。


         協力               紅葉台木曽馬牧場
                           甲州和式馬術探求会

         写真提供            林  佳夫氏


         鈴木純夫




        


       




Ⅷ:トカラ馬:関ヶ原合戦図屛風・戦国島津氏関係年表より

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  岐阜市郷土博物館蔵
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 週刊ビジュアル日本の歴史NO8

 慶長5年(1,600)9月15日の早朝に、近江(現在の滋賀県)との国境に近い、美濃関ケ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で、徳川家康が率いる東軍と石田三成らの西軍、合わせて10万人を超える軍勢(通説)が戦ったと言われる、戦国時代最大の合戦があった。(新暦9月15日は7月25日、旧暦9月15日は11月3日)

 著者が知る通説に対し、9月6日に発売された「歴史群像ー通説打破!”天下分け目の戦い”はこう推移した。関ヶ原合戦の真実-白峰旬著」に全く新しい関ヶ原合戦像が語られている。
 著者は、この説に「なるほど」と共感させられた。

 本ブログでは鹿児島県の馬を紹介しているため、薩摩島津軍の通説と、関ヶ原合戦前後の慶長4年(1、559)~慶長6年(1,601)の関係年表を紹介する。

 通説:石田三成ら西軍の敗北を察し、島津義弘が退却を決意し、家康方先手勢(井伊直正ー徳川四天王の一人)の猛勢の真中へ攻め、東側に突破した。その際に島津軍の放った鉄砲玉が「井伊直正の足」に当たり、それが原因で,、慶長7年(1,602)42歳の若さで亡くなったと言われている

 関係年表
 慶長4年(1,559)正月9日:徳川家康・前田利家等豊臣氏の年寄衆は、義弘・忠恒父子の慶尚道泗川の戦                  
                   功を賞し、5万石を加え、忠恒をして右近衛権少将に任じた。
             2月24日:忠恒、伊集院久治を薩摩出水の地頭とした。
             2月28日:義久は大隅富隈に帰らんとし、大坂を発した。
              3月9日:忠恒は伊集院忠棟を山城伏見の亭に手刃した。
             3月20日:伊集院忠棟の子忠真、日向都城によって叛した。
               閏3-: 義久は山田利安等の諸将を大隅・日向の各地に分遣し、伊集院忠真に備えた
                4-:忠恒は、山城伏見を発して帰国した。
             6月23日:忠恒は、伊集院忠真の属城大隅恒吉及び山田を攻め、山田城を陥した。
                6-:義弘・忠恒は、慶尚道南原及び同道泗川の両軍戦死者の供養碑を紀伊高野山       
                   に建てた。
                6-:義弘は、忠恒に訓戒の条々を与えた。
              7月9日:家康は、山口直友を派し、忠恒をして速やかに伊集院忠真を討たしめ、また日
                   向肥沃伊東祐兵・肥後人吉の相良頼房をして島津氏を授けさせた。
              8月20日:家康は、寺沢正成を島津氏に派し、速やかに伊集院忠真追討せしめ、島津忠
                    豊及び伊東祐兵・相良頼房・秋月種長・高橋長行をして、正成と謀り、島津氏を   
                    授けさせた。
               9月2日:義弘は、山城豊国社に詣でた。
               9月2日:忠恒は、日向真幸院の地を霧島社に寄進した。
              9月30日:忠恒は、鹿児島を発して日向庄内に進み、山田城に陣した。
              10月3日:義弘は、山城伏見より大阪に行き、家康に会した。
 慶長5年(1,600)3月10日:これより以前、義久及び忠恒は徳川家康の調議を容れ、伊集院忠真の罪を赦
                    し、一万石の地を給した。そこで、忠真は降り、諸城を出した。
             3月25日:忠恒は、霧島神社に高原の地に寄進した。
             4月27日:義弘は、家康に大坂城で会し、伊集院忠真との調停の労を謝した。家康は陸
                    奥会津に出征せんとするにより、義弘に山城伏見城留守の任を命じた。
             5月11日:義久は、薩摩大乗院・福昌寺をして重罪人を隠匿することを禁じ、また華林寺に
                    も禁じた。
             7月14日:義弘は、大坂より家臣鹿島国明を薩摩鹿児島に派して、義久に兵を送るよう
                    頼んだ。
             7月17日:これより以前、石田三成、安国寺恵瓊をして義弘に説き、豊臣氏のために挙
                    兵させた。義弘はこれを拒み、家康の山城伏見城によらんとした。鳥居元忠・
                    内藤家長等に拒まれ、義弘の将新納旅庵が討たれたので、義弘は三成に応
                    じた。
             8月20日:これより以前、義弘は兵千人を率いて美濃垂井に陣した。のち、石田三成は義
                    弘をして美濃墨股を守らせた。
             9月22日:義弘、美濃関ケ原に敗れ、摂津住吉に逃れ、その室等の人質を欺き奪って出
                     帆した。ついで、日向細島に着き、帰国した。
             9月30日:家康は、子の秀忠をして安芸広島に出陣し、島津氏を討たんとした。
             10月2日:家康は、伊東祐兵をして肥後人吉の相良頼房、日向財部の秋月種長等と、義
                    弘を討たせた。
             10月9日:義弘は、美濃関ケ原従軍の諸士を賞した。
            10月10日:家康は、山城鞍馬で捕えた義弘の将本田信貞・新納旅庵を赦し帰国させ、義久
                    ・忠恒を説き、上京し罪を謝せんことを伝えた。
               10月ー:宇喜多秀家、美濃関ケ原に敗れ、家臣進藤正次と薩摩に逃れて島津氏に頼っ
                     た。
 慶長6年(1,601) 2月2日:家康の家臣井伊直正等は義久・忠恒に上京して罪を謝せんことを勧めた。
               3月ー:義久は、薩摩大明寺に地を寄進した。
               5月ー:これより以前、明王朱翊釣、義弘の朝鮮の役に捕らえし明人茅国料を送還せし
                    を喜び、毎年商船を薩摩に遣わすと約した。伊丹屋助四郎、海賊を集め、明船
                    を奪ったので、義弘は磔殺した。
              8月7日:義久・義弘・忠恒は家康の薩摩を攻めんとするを聞き、諸士を戒め、軍制を定め
                    た。
              8月16日:忠恒は、宝福寺に地を寄進した。
              8月24日:家康、忠恒の家臣鎌田政近を山城伏見城に引見し、本多正信・山口直友をし
                     て義久及び忠恒に誓書を与えた。

 慶長5年(1,600)4月27日、7月14日の記録から、義弘は徳川家康に従う意思があったものの、7月17日伏見城留守役、鳥居元忠・内藤家長の仕打ちにより、石田三成の軍勢に加わったことが分かる。

       
          引用    岐阜市郷土博物館蔵 関ヶ原合戦図
                 週刊ビジュアル日本の歴史 NO8 2000年4月11日 発行:ディアゴスティー
                 歴史群像 2017 OCT 10 NO145 学研
                 戦国史叢書 10  薩摩島津氏  三木 靖著  新人物往来社


      鈴木純夫
                                                


Ⅷ:トカラ馬ー川崎競馬場秋まつり

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  おとぎの国の物語、民と馬が共に暮らす豊かな国がありました。今日は年に一度の「馬まつり」。自慢の愛馬に跨り、6人の若武者たちが「今年こそは我が一番の武芸者に」と集まりました。

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    神楽鈴の舞

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         扇の舞

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      4騎の流し旗によるすれ違い

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 上:5騎の流し旗による、大形の輪乗り
 中:小形の輪乗り
 下:手前を変えての、大形輪乗り


   本日一番の勝負「くらべうま」を競う若武者たちが奉行に挨拶
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 3位決定戦 太鼓の合図で「おー・おー・おー」と声を張り上げ出走
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  朱色の衣の勝ち

 優勝決定戦
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  緑の衣が優勝
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    奉行より勝ち名乗りが告げられた若武者

 と、その時、山から出てたびたび民に悪さをする「大入道」が出現しました。「まつり」が一変!修羅場となったのです。しかし・・・
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 緑の衣のくらべうまの勝利者が、「日頃の極悪非道、我らが手により成敗いたす」と告げたのです。

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 手始めに「なぎなた」で、剛力振りを見せつける若武者
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  大入道目がけ、弓手横(ゆんでよこ)の構えから矢を放つ若武者

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 後ずさりした大入道に、押捩(おしもじりー左手後方に矢を放つ)の構えで矢を放つ若武者
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 更に、ひるむところを弓を馬の首を跨ぎ、前方に弓を向け「くらえー」の声鋭く、追物射(おものい)の構えで矢を放つ若武者
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  連射で、大入道にとどめを刺し、見事に成敗したのです。

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 成敗した余韻の中、一同が奉行前に進みます。
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 「大入道」を成敗し、今年一番の武芸者に選ばれ、「金色の布」を賜る緑の衣の若武者

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 勇壮に戦った若武者たちには笑みも見られる。一変した修羅場が無かったかの様に、今年の「まつり」は終わったとさ。お・し・ま・い。


馬たちとの触れ合い
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    協力                   神奈川県川崎競馬組合
                          紅葉台木曾馬牧場
                          甲州和式馬術探求会
   
    写真提供                林 佳夫氏
   


                                           鈴木純夫

Ⅷ:トカラ馬ー日本ウマ科学会 Hippophile NO71

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 2月と4月に、トカラ馬を飼養している、「開聞岳山麓自然公園」・「鹿児島大学農学部付属農場」・「十島村中之島」の3ヶ所を取材した記録を記事にし、6月に上記学会に投稿しました。
 編集選考委員会より選考を頂き、「トカラ馬見聞記」として12月号に掲載されました記事を、以下にし紹介させて頂きます。

はじめに
 トカラ馬は九州南西部に位置する島嶼群であるトカラ列島で古くから飼われてきた日本在来馬である。体高110~120㎝程度で日本在来馬としては小柄といえる。かつては列島の島々で農耕や運搬、サトウキビ絞りなどで用いられてきた。
 明治38年から始まった馬政計画により、日本の在来馬は洋種馬との混血が進んだが、トカラ馬は離島で飼育されていたため、ほとんど洋種の遺伝的影響を受けずに終戦を迎えた。しかし戦後、農業の機械化で飼養頭数は激減した。
 さて、筆者はかねてより日本在来馬に興味があり、平成23年7月~平成26年7月にかけて御崎馬、木曽馬、対洲馬、野間馬、宮古馬、与那国馬、北海道和種の7種について、各在来馬保存会担当者を訪ねて、日本馬事協会が平成19年12月に出した「日本在来馬保存会全国会議概要」の進捗状況、今後の課題等を聞いてきたが、その結果これらの保存会が本来あるべき在来馬の姿に真摯に向き合っていることが分かった。また、乗馬が可能な在来馬には実際に乗ってみて、動きの感触を味わうことができた。
 筆者未見の在来馬として最後にトカラ馬の保存担当者を平成29年2月から4月にかけて訪ねた。現在トカラ馬は群れとして開聞岳山麓自然公園、鹿児島大学付属農場、十島村中之島の3か所に分散して飼育されている。今回、それぞれの群れの飼育に直接携わっている方を訪ね、話を聞いたのでその概要について以下に記したい。

開聞岳山麓自然公園
訪問日:平成29年2月16日
話しを聞いた人:いわさきホテルズ 岡本敦郎氏
平成28年度仔馬の出生頭数:9頭(牡:6頭、牝3頭)
平成28年度総頭数:57頭(牡:27頭、牝30頭)

 今年は9頭の仔馬が生まれたが、群れの牡のうち9歳の栃栗毛が最も優位で、この馬の仔馬が多いと推定される(写真1)。
 馬たちは午前8時に牧柵内のエリアから開放し、午後5時に全てのの中に収容する。
 なだらかな山麓に放牧される馬たちは、人間に対して全く無警戒で、ひたすら牧草を食み、カメラを向けても動じない。4つのグループの馬たちと、単独で行動する数頭の牡馬たちの姿は、まるで御崎馬を見ている様な気分になるが、明確なハーレムが形成されているかは不明だった。また牡馬同士の闘争行動は、ほとんど見られなかった。(写真2,3)。
 餌は牧草だけでは足らず、年間に百数十万円ほど資料費がかかるそうだった。ただし、運営は、鹿児島県を中心に幅広く観光、交通事業を手掛ける「岩崎グループ」がしており、財源的に安定していると考えられた。

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  写真1、開聞岳山麓自然公園の群れで最も優位と思われる牡

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 写真2、公園内に放牧されているトカラ馬。開聞岳が奥に見える。

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 写真3、 川尻海岸が望まれる


鹿児島大学農学部付属農場
訪問日:平成29年2月17日
話しを聞いた人:同大学農学部准教授 大島一郎氏

平成28年度仔馬の出生頭数:4頭(牡:3頭、1頭)
平成28年度総頭数      :41頭(牡:19頭、牝21頭)

 付属農場は、主に牛を研究するための場であり、現在、鹿児島大学で馬を専門に研究されている先生はおられない。この農場において馬は「動物的遺伝資源の確保」と「牧草地の管理」が目的であり、人が馬にアプローチするのは、伝貧の検査のときだけである。馬は牛の食べ残した牧草を食べさせるため、役150haの農場を20か所程度に牧柵で区切り、飼育員が1ヶ月に1度ぐらい見回り、馬を別の区画に移動させる。馬のために追加の餌はあたえない。冬はススキや雑草を食べている(写真4,5)。
 写真撮影がしたい旨を伝えたところ、飼育員の車の後から大島先生の運転する車で馬の居そうな場所を探しに出かけた。馬が見えた瞬間、馬たちは一斉に丘を目指して走り去ってしまった。大島先生に無理を言って、飼育員さんに丘の上から「馬」たちを追い立ててもらったが、一斉にもの凄い勢いで斜面を走り回り、カメラに安易く納めさせてくれなかった。
 5~6群のハーレムが形成されているが、近親交配が進んでいるようである。牡馬同士の闘争行動はかなり激しいと言われた。

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  写真4、人間の気配を察知し逃げる馬たち

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 写真5、 全く近寄らない馬たち

十島村中之島
訪問日:平成29年4月22日
話しを聞いた人:十島村契約職員 本田氏

平成28年度仔馬の出生頭数:3頭(牡:1頭、牝2頭)
平成28年度総頭数      :21頭(牡12頭、牝9頭)

 トカラ列島中之島で飼養されているトカラ馬たちは、離島で飼育されている唯一の群れである(同列島の宝島に19歳の牝馬1頭が飼育されているが、保存会の数にカウントされていない。
 鹿児島港より、23時発のフェリー「としま丸」に乗船して8時間後、島に到着した。いきなり硫黄の匂いがが鼻をついた。料金はこころざしという適度な温度の天然温泉にしっかりつかり、洗髪、髭剃りを済ませトカラ馬牧場がある標高250mを目指し、2.3㎞の坂道を、6回分の食料と水・着替えの衣類が詰まったリュックを背負い、ひたすら歩いた。
 登り切ったところで、小さく馬たちの姿を見つけたが、コンクリート舗装された道路の右下1.5m位の所mに池があり、その池が約2haの馬たちの放牧場の3分の1を占めていた。湿地に続いて馬たちの放牧場があるが、そこには牝馬8頭が放牧されていた。平成28年度は雪が降り2頭が死亡したが、離島ゆえ獣医師をすぐに呼ぶことも出来ず、死因不明のまま葬ったそうである。
 左手を見上げると御岳(979m)がそびえており、稜線に森がありその下が牡馬の放牧場になっていた。牝馬がいる放牧場が下牧場、牡馬がいる放牧場を上牧場と称していた。大雨が降った時には御岳から森を下った雨水で、上牧場が川のようになり、下牧場に流れ込み冠水してしまう。伝貧の検査のためにやって来る獣医師には、下牧場の牝馬の伸びすぎた蹄を見る度に「道路のゆうな堅い所を歩かせないと」と言われるが、飼養する者にとっては簡単な話しではないと嘆いていた(写真6,7)。
 ここの馬たちは周年放牧である。
 どの馬もとても人懐っこく、カメラを向けると周りの馬たちまで著者の体に触れるぐらい近寄って来る。優しい目がいじらしかった。
 餌は牧草の他に、ヘイキューブとチモシーを与えているが、開聞岳山麓自然公園の馬たちと比べると、若干痩せているように思われた。管理者も栄養が足りているか大変気にしていた。
 現在のトカラ馬のルーツは喜界島から移動した馬たちだから、喜界島から妊娠が確認出来た馬1頭を移して欲しいと言ってきているそうである。

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 写真6 大雨が降ると川になる上牧場

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  写真7 右奥に池があるのが分かる

おわりに
 3か所の施設で飼育されているトカラ馬の平成28年4月時点の総頭数は119頭(牡:58頭、牝:61頭)であった。またマイクロチップが2016年11月以降順次に埋め込まれ、個体識別がなされるようになっている。さらに全頭に対して伝貧の検査が定期的に行われている。
 さて、2016年5月9日から朝日新聞夕刊に「在来馬をたどって」と題したコラムの連載が始まり、その1回目はトカラ馬だった。しかしその記事には鹿児島大学農学部付属牧場で飼育されているトカラ馬しか取り上げられず、開聞岳山麓自然公園、十島村中之島に放牧されているトカラ馬には一切触れられていなかった。
 筆者が訪問した3か所の飼育施設の馬たちは、人に対する態度、飼育環境、栄養状態などそれぞれ大きな違いがあった。
 分散して飼育されている3か所全てをを見たうえでなければ、本当の意味でトカラ馬をしることが出来ないことを痛感した次第である。

 ※伝貧とは、「馬伝染性貧血症」のことで、馬にとって死亡に至る大変厄介な伝染病である。
   4年前、御崎馬に発生し15頭が殺処分されている。


    本年はこの記事で締めさせて頂きます。
    お付き合い頂き、有難うございました。
    来年は、別の学会に「研究ノート」を投稿できるよう、現在、取材・資料集めに勤しんでいます。

    皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。
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                                           我が家の愛犬 レノン 牝 9歳

                                       
                                                                               平成29年12月27日
                                          鈴木純夫

トカラ馬ーお知らせ

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「日本の馬 御猟野乃杜(み かり の の もり)牧場」開設のお知らせ。

5月1日、下記にて「オープニングセレモニー」を行います。

場所:滋賀県近江八幡市加茂町1780 西村鶏卵場隣


「和式乗馬術」専門の牧場です。ご来場お待ちいたしております。
勿論、流鏑馬もご指導させて頂きます。
馬は5頭ですが、1頭は4月27日で1歳になる鹿毛粕毛の牡馬です。
(月毛の北海道和種:理宝、仔馬;啓史、父:木曽馬、母:理宝は著者の馬です)

著者は、1日~6日まで、奉行姿で皆さまからの質問にお答え出来るようにしております。
お気軽に、声掛けしてください。

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女性が牧場の代表です。

左:啓史 右:理宝です。



                        鈴木純夫

トカラ馬ー「日本の馬 御猟野乃杜牧場」オープン出来ました。

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 平成30年5月1日(火) 滋賀県近江八幡市加茂町1780(西村養鶏場 隣)に、日本で唯一「和式馬術専門」の牧場が出来ました。(馬場は完全に出来上がりましたが、厩舎は未完成です)
 牝馬3頭、牡馬2頭(1頭は1歳)の5頭が、厩舎に入りました。
 牝馬3頭は北海道和種、牡馬は木曽・道産です。
 大勢の方に日本在来馬に触れ、その人懐っこさや、愛くるらしさに驚くほど関心を抱いて頂きました。
 最初から、日本の鞍・日本の鐙で乗りたいと言って来て下さった方には、体験乗馬をして頂き、とても喜ばれ、早速入会の申し込みをされた方もおられました。
 5月7日から通常営業をしています。
 以下、牧場と、当日の展示物の一部の写真を掲載します。

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         約400坪の馬場

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    室町時代の鐙・江戸時代のハミ・江戸時代の障泥(あおり)と三尺皮

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   和式馬術で使用する鞭

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太刀と前差し



鈴木純夫

トカラ馬ーテレビの実況生放送

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 5月17日、「日本の馬 御猟野乃杜牧場」で、読売テレビの実況生放送が行われました。
 関西圏のみの放映ですが、午後5:30から20分、6:45から10分、気象予報士の蓬莱氏(中部圏では、午後1:55から放送の「ミヤネヤ」に出演)が、日本在来馬に接し、流鏑馬体験をしました。
 著者は黒子に徹しましたが、愛馬「理宝」に蓬莱氏が乗り、とても良い仕事をしてくれました。

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   左が気象予報士の蓬莱氏(身長180㎝)、理宝の右が著者、「流鏑馬」の模範演技をした岩浪さん、右端がオーナーの磯部育美です。

 16日にNHK大津放送局が、午前10:00~午後6:00まで撮影したものを編集し、23日(水)午後6:00から関西圏で放映されます。

牧場の場所が分かり難いですが、ホームページを御覧頂き、連絡いただけば送迎いたします。


   鈴木純夫

トカラ馬ー宮古馬の虐待の原因

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 今年は薩摩馬について資料を読み込み、更に取材を試み掲載する予定であった。が、研究・取材を始めて4月で8年になるのを機会に、拙いながらも自費出版を考え「活字」に取り組んだため、ブログの掲載を更新しなかった。
 発行を12月20日予定としていたが諸事情により、平成31年1月下旬になってしまった。
 予定道理に発行されていれば、今回の「宮古馬の虐待」が読者の皆様に予見されていた事であろう。
 そこで、拙著「過去と現在 そして未来の日本在来馬」より、「宮古馬」の項から一部分を紹介させて頂く。

 宮古馬は沖縄県の指定天然記念物である。宮古馬保存会の特徴は他の保存会に例を見ない、現職市長が保存会会長であり、「馬」の所有権は宮古島市にある。飼育者は「市」から委託されおり両者の関係は「委託飼育」である。餌代金は1頭あたり月額5,000円支払われているが、委託飼育者からは月額15,000円にするよう増額補助を保存会に求ている。
 「飼育にかかる経費をこれ以上自腹で負担するのは厳しい」と窮状を訴え、改善されない場合「2018年6月に馬の一部を返還せざるを得ない」と主張し、一方、保存会事務局を担う市畜産課は、平成30年4月に所管を市教育委員会に移すため「対応をこれから検討する」としている。
 現在、8人の委託飼育者が48頭を飼育し、保存会が増殖目標に掲げる50頭に届くまでになった。(平成30年6月26日現在)
 市は「宮古馬保存にかかる費用として、平成29年度に338,000円を計上。餌代金として月額5,000円を補助するほか、繁殖を奨励するため仔馬が産まれた場合には100,000円を助成する」と言っている。
 しかし、25頭を飼育する委託者代表のN氏は「補助は実際にかかる餌代金の1/3にしかならず、年間約2,000,000円を自己負担している。馬小屋の改修にも別途費用が支出しており、これ以上は経済的に維持できない。また、飼育者が病気や島外への用事で飼育できない場合、アルバイトを雇って餌やり・掃除をしていることから、市が20頭につき一人の飼育補助者を確保するか、もしくは資金支援をして欲しい。馬の近親交配を避けるための施設と宮古馬の保存に向けた公園の整備も求める」と話す。
 これに対し市長は、「主張は良く分かる。天然記念物を所管する県と餌代金について考えたい」と言い、県教委は「記念物指定の翌平成4年から5年間の暫定措置として、年間600,000円を市に補助した実績がある」言いう。
 また、文化財課の担当者は「条例上、自治体から補助金申請があれば検討したい」とも話す。
 しかし、N氏は「少なくとも8年前から市に対応を求めてきたが実現してもらえない。今回も何も変わらなければ宮古馬を全て返還せざるを得なくなる」と嘆いていた。
 6月にN氏に状況を問い合わせたところ、「返還することも出来ず、また補助金の増額も見込めない」とやるせない返事が返って来た。

 上記ことから行政が飼育者と、まともに対処しているとはとても思えない事が、お分かり頂けたこ思う次第である。

 今回は、一人の飼育者が起こしてしまった事がネット上で拡散してしまい、宮古馬の全てが虐待されている様な錯覚を覚えてしまいそうであるが事実はそうではない。
 市も必死になって対応し、飼育者同士が監視活動をしていると聞く。
 沖縄県・宮古島市の行政と、宮古馬飼育者と真剣に話し合う場を一刻も早く持って頂くことを期待し、本年最後の掲載とする。

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                       愛馬と亥の土鈴

 読者の皆様にとりまして良き一年となりますよう!

 平成30年12月30日
 鈴木純夫



過去と現在そして未来の日本在来馬

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拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」を平成31年3月28日に発行致します。
B5版、P117(オールカラー)
価格:1、000円(税込み)
お支払いは発送の際、振り込み表及びゆうちょ銀行の口座番号をお知らせいたします。
尚、送料・振り込み手数料はご負担願います。
購読して頂ける方は下記メールアドレスに、住所・お名前・電話番号のご記入をお願い致します。

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Ⅷ:トカラ馬 元寇ー蒙古襲来絵詞より ①

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 2年ぶりに九州産馬について掲載させて頂きます。
 九州の名馬と言えば、島津義弘の愛馬「龍白ー膝附栗毛」です。(馬上での鑓戦さで義弘が絶対絶命の窮地なった時、龍白が前足を跪いたため鑓が義弘の兜をかすめたため2度命拾いをした。そのため栗毛の龍白を膝附栗毛と呼ぶようになった。が、牝馬であったと言う軍記や伝説があるため、鹿児島県姶良市教育委員会から頂いた資料・聞き取り調査を行ったが、実像がつかめないためこれ以上触れない)
 中国を支配していた「元」が日本国を手中納めようと、文永十一年(一二七四)・弘安四年(一二八一)の2度に渡り九州を攻め込んで来たとき、如何に九州御家人達が「馬を操り」果敢に戦ったかを簡略に掲載する。
 そもそ「も蒙古襲来絵詞」は、肥後国矢代郡竹崎の住人で菊池氏一族内の勢力争いから排除された、弱小の竹崎季長が描かせたものである。
 この戦いに季長は親族・郎党5騎で挑んだ。
 元絵巻は宮内庁三の丸尚蔵館にある。奥書に作者の名前と年代が書かれている。
 作者:土佐長隆・長章父子で永仁元年(一二九三)二月九日。
 
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 13世紀~14世紀のユーラシア大陸
元(蒙古人)が漢人の江南軍と高麗(当時朝鮮半島を統治)の連合軍約30,000人・軍船900艘(蒙古人は遊牧民族のため海に馴染みがないため海に近い江南軍(元によりほぼ滅ぼされた南宋・中国南部)と高麗軍の割合が多い。

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鳥飼潟の戦い:流旗を先頭に果敢に連合軍に攻め込む九州御家人・白石六郎道泰その勢力百余騎
連合軍の短い矢がご覧いただける
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姉婿の三井三郎質長
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季長の馬が連合軍の矢に当たり流血している。
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季長の馬が流血している場面の上に書かれて言葉
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蒙古襲来絵詞の馬は、力強さや逞しさがみなぎっており、このような馬が作付け出来る事を期待したい。
見た限りでは体高いは130㎝程か。

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逃げる連合軍
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矢の長さは日本の方が長くしかも威力がある事が分かる
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対峙する連合軍(楯をもっている。馬は現地から運んできたものなのであろうか。日本の馬と比べると劣るような気がするが私だけであろうか。

次回は②を掲載します。 



参考文献:西尾市岩瀬文庫
               鹿児島県姶良市教育委員会
参考文献



                             鈴木純夫
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